|
|
唐橋(韓橋) (京都市東山区) Kara-hashi Bridge |
|
唐橋(韓橋) | 唐橋(韓橋) |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() 【参照】現在、九条通、鴨川に架かる九条跨線橋 ![]() 【参照】「唐橋」の地名 |
かつて九条通、鴨川に唐橋(から-はし、韓橋)が架かっていた。 平安時代、九条坊門小路(現在の東寺道)は東京極大路から西京極大路にあり、唐橋(韓橋)小路といわれた。小路の延長線上の鴨川に韓橋が架けられていたことによるという。 ◆歴史年表 詳細は不明。 平安時代、九条坊門小路(現在の東寺道辺)の延長線上に、韓橋が架けられていたともいう。(『帝王編年記』) 879年、「辛橋(からはし)」と記されている。(『三代実録』) 954年 -974年?、藤原道綱母は、初瀬詣の際に法性寺より橋を渡り、大和大路(法性寺大路)へ出たとみられる。(『蜻蛉日記』) 1020年-1059年、菅原孝標女は、初瀬詣の際に法性寺より橋を渡り大和大路(法性寺大路)へ出たともいう。(『更級日記』) 1092年、新中納言・藤原忠実は春日祭のために南都に赴く際に、「七条大路に至り、河原に出御す。九条口に至り、御馬を乗り替えしむ」とある。九条口とは、現在地付近を指し、ここより鴨川を渡ったとみられる。(『為房卿記』) 1154年、春日祭の使いは、奈良へ向かう際に、「九条口を経て河原に出る」とあり、この付近より鴨川を渡ったともいう。(『兵範記』) ◆唐橋 唐橋(韓橋)は複数あり、のちに周辺の地名にもなった。羅城門南側の幅一丈の堀を跨いで架けられた橋名ともいう。幅広い唐風だったという。 また、同名の橋も架けられていたという。東寺の西、紙屋川(現在の西高瀬川)にあった。また、九条坊門小路の延長上の鴨川にあった橋ともいう。 唐橋について、東寺の西梅が小路の南山崎道にあり、古く韓人(かんじん)来朝の際に、この橋を経て平安時代の迎賓館だった鴻臚館(こうろかん)に入っていたという。また、豊臣秀吉は、安土・桃山時代、1592年・1597年の朝鮮出兵時に京都からこの橋を渡り山崎道に赴いたという。ただ、これについては地名由来としては謬伝という。(『京羽二重織留』) ◆唐橋村 唐橋村は、葛野(かどの)郡に属し、北は八条通を境とし梅小路村、南は紀伊郡吉祥院村・鳥羽村、東は千本通を境とし八条村・西九条村、西は紀伊郡吉祥院村・西ノ庄村に接していた。 平安京条坊では左京九条一坊、九条二坊一保・二保に当たる。現在の南区唐橋16町、下京区梅小路高畑村(1955年に下京区再編)になる。東西路南限の九条大路が通り、西寺・羅城門が置かれていた。平安時代中期に西寺は焼失し、平安時代末に羅城門も廃絶したという。 西寺の寺領の一部・境内地は田地の小字として唐橋が残っていた。南北朝時代、1352年には、唐橋は東寺から松尾社(現・西京区)への知行が安堵されその支配下に入ったとみられる。 唐橋の地名について諸説あり、大内裏西大路(現・御前通)九条坊門に当たるとされ、その別名が唐橋(辛橋)であり中古より呼ばれたという。(『京都府地誌』)。また、九条大路・九条坊門小路の間にあった信濃小路だったともいう。(『拾芥抄』)。九条坊門小路であり、またその通名だったともいう。(『拾芥抄』天文古抄本、『帝王編年記』、『太平記』) 西唐橋は、安土・桃山時代、1573年のルイス・フロイスの書簡にあり、織田信長によって焼かれた一村だった。江戸時代前期、1690年に西唐橋(本村)・東唐橋(枝村)が分かれる。郷帳などでは一村のままだった。 ◆九条坊門小路 平安時代、九条坊門小路沿いには関白・藤原師輔(909-960)の九条殿などの邸宅、貧民の病人を収容・治療した施薬院、空海が創設した庶民の教育施設、綜芸種智院などがあった。やがて唐橋は付近の地域名にもなった。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の橋ものがたり』、『京都大事典』、『京都の地名検証 3』、『京都市の地名』、ウェブサイト「花の都」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|