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西願寺 (京都市左京区岩倉) Saigan-ji Temple |
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西願寺 | 西願寺 |
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![]() ![]() 参堂の石段 ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ![]() ![]() 観音堂 ![]() 観音堂 |
岩倉の西願寺(さいがんじ)はかつて三条縄手大黒町(東山区)にあり、「四軒寺」(ほかに三縁寺、高樹院、養福寺)のひとつとされた。 浄土宗鎮西派。本尊は阿弥陀仏を安置する。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 年代不詳、願誉宗福により創建されたという。 かつて三条縄手(東山区大和大路三条下ル大黒町)にあった。 江戸時代、1662年、「四軒寺」の一つとされ記されている。(「新板平安城東西南北町並洛外之図」) 1685年、知恩院末として記されている。(『京羽二重』) 現代、1979年、三条大橋の東詰、バスターミナル開発により現在地に移転した。 ◆小川テイ 江戸時代後期-近代の女性・小川テイ(?-1923)。家は三条縄手(東山区)、三条大橋東詰三縁寺の向かいにあり代々魚屋「魚卯」を営む。肥後藩京屋敷の御用商となる。主人の2代目・近江屋卯兵衛、義母・リセ、妻テイの3人で商う。夫没後、免許が下りないため魚屋を廃業し、姑とともに旅館業「小川亭」を開く。肥後藩など尊攘派の浪士と関わる。宮部鼎蔵らも上京の際には宿泊したという。福岡藩士・平野国臣、長州藩士・桂小五郎、熊本藩士・河上彦斎なども出入りした。1864年、池田屋事件に先立ち、宮部の下僕・忠蔵が新撰組により南禅寺山門にさらされた際に、テイは宮部に知らせ宿を桝喜から小川亭に移させた。忠蔵も救出した。池田屋事件では宮部ら馴染み客の多くの志士が犠牲になる。宮部らの遺体を三縁寺(東山区)に掛合い埋葬し、犠牲者の回向を続けた。1868年、維新後、店は大いに繁盛した。テイは平野国臣の銅像を故郷福岡に立て、顔の検証を行ったという。1923年、廃業した。西願寺に葬られた。90歳?。 ◆仏像 ◈ 本堂安置の本尊「阿弥陀仏」は、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)作とされた。(『浄家寺鑑』) ◈ 観音堂の「聖観音菩薩立像」は、朝日観音とも呼ばれる。菅原道真の念持仏だったという。かつて北野神社(北野天満宮)にあり、近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により遷されたという。(『坊目誌』)。木心乾漆造による。本体から台座まで木造一材造になる。奈良時代作とみられている。2007年度に修復された。像高60cm。 ◆日想観 日想観(日想)が行われている。西に沈む太陽を見て心に留める。観無量寿経に記され、極楽浄土を見る修行になる。 ◆三軒寺・四軒寺 西願寺はかつて「三軒寺」の一つと称された。三軒寺とは、三条縄手大黒町(東山区)にあった、西願寺、高樹院、三縁寺の3寺をいう。 西願寺は後に「四軒寺」の一つとも呼ばれた。三条縄手大黒町(東山区)にあり西願寺、高樹院、三縁寺に養福寺を加えた4寺を称した。 ◆墓 小川テイの墓がある。 *参考文献・資料 『京都市の地名』、『おんなの史跡を歩く』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 境内よりの西の景色 |
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