間部詮勝寓居跡・妙満寺跡 (京都市中京区)  
Ruins of Manabe,Akikatsu Temporary Residence
間部詮勝寓居跡・妙満寺跡 間部詮勝寓居跡・妙満寺跡 
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「間部詮勝寓居跡」の石標

 寺町通二条下ル東側の公園の一角に、「間部詮勝寓居跡(まなべ-あきかつ-ぐうきょあと)」の石標が立っている。
 この地にはかつて妙満寺があり、江戸時代後期の大名・間部詮勝が一時滞在し、日米修好通商条約締結後の調整を行った。
◆歴史年表  安土・桃山時代、1583年、妙満寺は、羽柴(豊臣)秀吉の命により、四条綾小路の間(下京区妙満寺)より、京極銅駝坊(榎木町)に移転し、「寺町二条の妙満寺」(寺町二条下町)と親しまれる。
 江戸時代、1858年、9月、間部詮勝は、幕府が調印した日米修好通商条約に激怒した第121代・孝明天皇を説得するために上京した。詮勝は、妙満寺に宿泊し動かなかった。
 1859年、3月まで、妙満寺は詮勝の宿所になった。
 現代、1968年、1967年とも、妙満寺は、「昭和の大遷堂」により、旧地(中京区)から現在地(左京区)に移転している。
1968年、 京都市により石標が建立された。
◆間部詮勝 江戸時代後期の大名・間部詮勝(まなべ-あきかつ、1802-1884)。第5代藩主・間部詮煕(あきひろ)の3男。1812年、奏者番。兄・詮允(あきさね)の養子になり、1814年、越前鯖江(さばえ)藩主、間部家7代になり下総守(しもうさのかみ)と称した。1831年、寺社奉行加役、1836年、大坂城代、1838年、第46代・京都所司代、1840年、西丸老中になる。1843年、老中首座・水野忠邦との意見不一致により解任された。日米修好通商条約調印直後の1858年6月、罷免された堀田正睦、松平忠固に代わり大老・井伊直弼(いい-なおすけ)により老中に登用された。勝手掛、外国掛を務めた。条約調印の事情を上奏し、反幕派を押さえるために、9月、京都へ上り宿舎の妙満寺に入る。井伊腹心・長野主膳と連絡ともに、京都所司代・酒井忠義を指揮して、尊王攘夷派の公卿の家臣、諸藩の志士の弾圧逮捕を行った。梅田雲浜、鵜飼吉左衛門、幸吉父子、鷹司家諸大夫、小林良典らが捕えられた。(安政の大獄)。第13代将軍・徳川家定(1824-1858)の将軍後継問題にもあたる。1859年、勅許「調印のやむをえざる事情は認める」を得て、江戸へ戻る。後に、直弼と不和になり免職になる。以後、尊王攘夷運動が盛んになった。1862年、在職中に不都合の処置をなしたとの理由で隠居になり、急度慎(きっとつつしみ)を命じられた。1865年、謹慎を解かれ剃髪して松堂と号した。83歳。
◆孝明天皇 江戸時代後期の第121代・孝明天皇(こうめい-てんのう、1831-1867) 。統仁(おさひと)。第120代・仁孝天皇の第4皇子。母は新待賢門院藤原雅子(なおこ)。1840年、立太子、1847年、即位した。父の遺志により公家の学問所(学習院)を創設する。石清水臨時祭で外国勢力打ち払いを行う。1850年、伏見稲荷大社など七社七寺に国家安泰などを祈祷させた。1853年、ペリー来航以後、七社七寺に国家安泰などを外患祈祷させた。1854年、日米和親条約(神奈川条約)は許した。内裏が焼失する。平安神宮などに外患祈祷させた。1855年、御所の安政度の造営を幕府に通達する。1858年、日米修好通商条約で、老中・堀田正睦の条約調印の勅許は拒否した。幕府が独断で調印し、一時、天皇は譲位を表明する。条約調印を了承した。(条約勅許問題)。1860年、桜田門外の変後、将軍・徳川家茂と皇妹・和宮の婚姻を承認し、公武合体の立場をとった。幕府に10年内に鎖国に復することを条件にした。1861年、長井雅楽の政治外交思想「航海遠略策」を受理した。1862年、薩長土3藩主の要請に基づき、三条実美らを勅使として派遣し、幕府に攘夷を督促する。1863年、「攘夷断行」を幕府から上奏させる。長州藩の建議を受け、家茂を従え237年ぶりに賀茂社へ行幸する。八月十八日の政変では、攘夷派公卿の三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。(七卿の都落ち)。1864年、家茂に公武一和の協力を命じた。禁門の変の直後、長州追討を命じる。1865年、幕府の要請を受け長州再征を許可した。慶喜の強要を容れ条約を許可した。1866年、第二次長州征伐中に将軍・家茂が死去、天皇は征長の停止を幕府に指示した。第15代将軍・慶喜の就任直後に疱瘡(ほうそう)で没した。毒殺説も噂された。36歳。
 攘夷佐幕を主張した。公武合体策もとる。岩倉具視ら公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。歌を詠み、御集に『此花詠集』がある。38歳。
 陵墓は後月輪東山陵(東山区)になる。
◆日米修好通商条約 日米修好通商条約は、1858年6月19日(新暦7月29日)に、日本とアメリカ合衆国との間で結ばれた。日本が外国と結んだ最初の通商条約になる。
 条約14ヵ条と貿易章程7則から成る。調印場所は神奈川(横浜市)沖の米艦ポーハタン号上、調印者は日本側は下田奉行・井上清直(きよなお)、目付・岩瀬忠震(ただなり)、アメリカ合衆国側は総領事・T・ハリス(初代駐日総領事)だった。
 大老・井伊直弼(なおすけ)は、鎖国主義の第121代・孝明天皇の勅許を待たずに調印に踏み切った。1856年-1860年のアロー戦争で、清国に勝利したイギリス・フランス大艦隊が日本に来航し、条約締結を迫ることを回避するためだった。
 公使(首都)・領事(開港場)の駐在、両国民の自由貿易のほか、開港地については、日米和親条約で既に開かれていた箱館のほか、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、下田の鎖港だった。また、公使の交換、自由貿易の原則、内外貨幣の同種同量通用、江戸・大坂の開市、開港場の外国人居留地の設定、アメリカ合衆国人の信教の自由などだった。
 ただ、日本の欧米列強への対外従属的な開国開港であり、領事裁判権(居留民の事実上の治外法権)、関税自主権の喪失、片務的な最恵国条款という不平等条約だった。条約締結後、尊王攘夷運動の台頭、朝廷と幕府の対立を招いた。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 間部詮勝寓居跡・妙満寺跡 〒604-0931 京都市中京区榎木町,中京区寺町通二条下ル東側
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