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白沙村荘 (京都市左京区) Hakusason-so Garden & Museum |
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白沙村荘 | 白沙村荘 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 鎌倉時代、国東塔、高さ5m ![]() ![]() 瑞米山玄関 ![]() ![]() ![]() ![]() 鎮守社 ![]() 鎌倉時代前後、笠原燈籠、滋賀県野洲郡、高さ2m ![]() 石橋 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 南北朝時代、宝篋印塔 ![]() 「左大文字」の道標 ![]() ![]() 苑路 ![]() ![]() ![]() 庭園 ![]() 存古楼 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 九重塔 ![]() ![]() ![]() ![]() 四阿「如舫亭」 ![]() 「如舫亭」 ![]() 「如舫亭」、蹲踞 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 井桁 ![]() 茶室「憩寂庵」前 ![]() 茶室「憩寂庵」 ![]() 茶室「憩寂庵」 ![]() 茶室「憩寂庵」 ![]() 茶室「憩寂庵」 ![]() 茶室「憩寂庵」 ![]() 茶室「椅翠亭」 ![]() ![]() ![]() ![]() 礎石蹲 ![]() ![]() ![]() 宝篋印塔 ![]() ![]() 国東石幢 ![]() ![]() ![]() ![]() 観音石幢 ![]() ![]() ![]() 中門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 十三重塔 ![]() ![]() ![]() 池泉、奥に懶雲洞 ![]() 持仏堂 ![]() ![]() ![]() 持仏堂 ![]() ![]() ![]() 鞍馬石の舞台石 ![]() 大仏殿燈籠 ![]() 七重層塔 ![]() ![]() ![]() ![]() 十一重塔 ![]() 七重石塔 ![]() 薮の羅漢 ![]() 薮の羅漢 ![]() 薮の羅漢 ![]() 薮の羅漢 ![]() ![]() 宝塔 ![]() ![]() 池泉、滝口 ![]() ![]() ![]() 井桁 ![]() 七重塔 ![]() ![]() 美術館 ![]() 美術館、大文字山の景観 ![]() ![]() 大文字山 ![]() 展示場 ![]() 洋館(レストラン・ノアノア) ![]() 洋館(レストラン・ノアノア)、現在は壁全体が蔦に覆われている。 ![]() 【参照】関雪の漢詩碑、琵琶湖疏水畔 ![]() 【参照】琵琶湖疏水、哲学の道、関雪桜 ![]() 【参照】琵琶湖疏水 ![]() 【参照】琵琶湖疏水 |
哲学の道近くに白沙村荘(はくさそん-そう)(国指定名勝)はある。近代の日本画家・橋本関雪がアトリエとして造営した旧邸宅であり、橋本関雪記念館を併設している。総敷地面積は10000㎡、建物を含む庭園(国の名勝)は6800㎡の広さがある。 白沙村とは、白川の東に位置し、周囲が一面の田畑だったことから名付けられたという。 ◆歴史年表 近代、1914年頃、橋本関雪は、浄土寺の土地を購入した。浄土寺領地の田園を埋め立て、白沙村荘造営が始まる。関雪は東京より、南禅寺・金地院に仮住まいし、造営の指揮を取った。建物、庭園の設計は関雪自身による。以後、30年にわたり自ら手を入れ続けた。 1914年-1916年、アトリエ兼住まいの白沙村荘(主家、画室)を建てた。 1916年、10月頃、関雪は白沙村荘の建設着手ともいう。(『京都の歴史10 年表・事典』)。この頃、作庭が始まる。 1922年、妻・よねは、第2疏水畔、哲学の道沿いに桜の若木を植え始める。桜並木は、後に「関雪桜」と呼ばれた。 1926年、白沙村荘に隣接した土地を購入する。 1930年、白沙村荘に隣接した土地を購入した。 1931年-1932年、茶室が完成した。 1932年、白沙村荘でよねの告別式が行われる。 1933年、満州国総理・鄭考胥が白沙村荘に関雪の父・海関を訪ねている。 1936年-1938年、庭園の西部分が完成した。 1937年、白沙村荘で盛大な茶会が行われた。 1943年、白沙村荘に隣接した土地を購入する。 1944年、現在の駐車場部分が完成する。 1945年、関雪は白沙村荘で亡くなる。 現代、1998年、主屋の調理場付近より失火し延焼した。 2003年、国の名勝に指定された。 2009年、茶室「倚翠亭(いすいてい)」、「憩寂庵(けいじゃくあん)」が焼失する。 2010年、最初の画室「懶雲洞(らんうんどく)」の改修が行われた。 2011年、渡り廊下「聞木犀香亭(もんもくせいこうてい)」の改修が行われる。 2012年、茶室「倚翠亭」、「憩寂庵」の再建が終わる 。2014年、新美術館が開館した。 ◆橋本関雪 近代の画家・橋本関雪(はしもと-かんせつ、1883-1945)。本名は成常、のち関一、別号は白沙村人。神戸市の坂本村(中央区)に生まれた。父は旧明石藩の儒者・海関の長男。母フジ。幼少より父に漢詩・書画などを学ぶ。湊川尋常高等小学校中退後、四条派の画家・片岡公曠に入門した。京都岡崎・第4回内国勧業博覧会で席上揮毫する。1898年、絵画修行のために上京した。1899年、神戸に帰る。1900年、神戸美術協会主催で東宮御慶事記念展覧会に「王昭君」を出品、御前揮毫をした。1903年、京都・竹内栖鳳の竹杖会に入る。岩見よねと結婚した。1906年、東京美術研精会主催展覧会で「四面楚歌の声」が研精賞を受ける。満州軍総司令部嘱託として日露戦争に従軍した。神戸在住の若手画家による「神戸絵画研精会」を興し、機関紙『白毫』を編集発行した。1907年、神戸で従軍記念絵画展を開く。1913年、中国、満州、朝鮮を遊行する。京都に移り岡崎・徳成橋畔に住む。1915年、南禅寺・金地院に移る。明石の二見に蟹江白鱸荘を完成させる。1916年、第10回文展「寒山拾得図」は初の特選になる。白沙村荘が完成し移り住む。1917年、第11回文展で「睨雲林」が特選になる。金島桂華らと共に中国を旅行した。1918年、第12回文展の「木蘭」が特選になる。1919年、京都美術学校新設問題について、京都市長・安藤謙介は関雪、竹内栖鳳、上村松園らと協議を行う。第1回帝展の審査委員、関雪の門下生により「新篁会」が組織される。1920年、第2回帝展の審査委員、東京博覧会の審査委員をつとめる。1921年、欧州旅行した。1923年、竹内栖鳳の「竹杖会」を脱会したという。1925年、関雪画塾「新篁会」を解散する。1926年、関雪、石井林響、小杉未醒ら8人により「解衣社」を結成した。関雪、堂本印象、福田平八郎ら6人で「六合会」を創立する。1927年、欧州旅行する。1929年、紀州・矢の子峠で自動車事故により負傷する。中国旅行した。1931年、パリ開催の「日本美術展」(1929)の功により、竹内栖鳳、横山大観らと共に「シュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章」を授与した。1934年、近代美術館建設期成会の発起人に参加する。1936年、古川北華を中心に、関雪、津田青楓ら6人で「興遊会」を結成した。冨田渓仙、横山大観ら14人で帝国美術院に辞表を提出した。1937年、帝国芸術院が成立し、会員に任命される。戦時下、1937年頃より、愛国運動に関わり戦争画、奉納画も描く。1940年、建仁寺方丈の襖絵「生々流転」など60面が完成した。1942年、吉川英治とともに南方従軍旅行を行う。瑞米山・月心寺(大津市大谷町走井)に葬られる。63歳。 新南画と呼ばれ、四条派をもとに東西の絵画諸派の影響も受けた。動物画に秀でた。造営した別邸はほかに大津「走井居」、明石「蟹紅鱸白荘」、宝塚「冬花庵」がある。 ◆橋本海関 江戸時代-近代の儒学者・教師・橋本海関(はしもと-かいかん、1852-1935)。名は子六。 播磨(兵庫県)生れ。明石藩儒。父は明石藩の家臣・橋本文水、母はマサ。1861年、母の実家・山内家の明石藩士・真陽に孟子を学ぶ。後に梁田蛻巌(やなだ-ぜいがん)の景徳館に入り、梁田葦洲(やなだ-いしゅう)に師事した。1866年、明石藩講武所詰、1868年、父より詩を学ぶ。1872年、敬義館の国語教師、1877年、兵庫県師範学校教師、1878年、神戸中学校教師(併任)。1883年、長男・関雪が生まれる。1888年、妻が家出し、関雪らは祖母に育てられた。後、清国大使館書記官・鄭孝胥と出逢い、横浜で清国の政治家・康有為(こう-ゆうい)を支援した。1899年、加古川の尼寺に寄寓する。1907年、明石天文町に移り『赤石三勝』を著す。1913年、関雪、孫・節哉とともに中国旅行した。帰国後『一葦航吟』を著す。1920-1933年、『明石名勝古事談』11巻を著す。84歳。 詩書、画も能くした。 ◆橋本よね 近代の女性・橋本よね(はしもと-よね、?-1932)。旧姓は石見。1903年、関雪を知る。1904年、関雪と結婚した。節哉、正躬、妙子を産む。1922年-1932年、琵琶湖疏水畔に「関雪桜」を植え続けた。 ◆鄭孝胥 清末の官僚・満州国の政治家・書家の鄭孝胥(てい-こうしょ、チョン-シヤオシュイ、Zheng Xiao-xu,1859/1860-1938)。字は蘇龕(そかん)。清国江蘇省生まれ。清朝で大阪総領事、総理衙門章京などを歴任した。1891年、来日し、神戸大阪総領事に就任する。1903年-1905年、広西辺務督辦(とくべん)として湖北新軍を統率した。1907年、官を辞し、張謇(ちょうけん)らと上海(シャンハイ)に予備立憲公会を創設し、立憲運動を進めた。1924年、溥儀につき総理内務府大臣に就任する。ただ、既に1912年、溥儀退位宣言により清朝は滅亡していた。孝胥は紫禁城を退去し、溥儀に従い日本軍の庇護下に入る。1932年、満州国建国の初代国務院総理に就任し、文教部総長を兼務する。関東軍を批判し辞任になる。1934年、満州国帝政移行により国務総理大臣に就任し、文教部大臣を兼務した。1935年、国務総理大臣、文教部大臣を辞任する。1938年、亡くなり満州国国葬になる。79歳。 民国一流の詩人、書家でもあった。 中国、清(しん)末、「満州国」の政治家。福建省福州の人。清末進士。 その後、盛宣懐(せいせんかい)の幕下に入って鉄道国有策を建議し、湖南布政使に任ぜられてその実施を図ったが、辛亥(しんがい)革命により挫折(ざせつ)した。以後上海で商務印書館董事(とうじ)の職にあり、1924年以後、天津(てんしん)で宣統帝の教育に従事した。「満州国」設立に参加して国務総理となり、帝制施行後、国務総理大臣に就任。 中国,清末,民国の政治家,学者,文人。 閩県 (福建省) の人。字は蘇戡,蘇龕,太夷。号は海蔵。光緒8 (1882) 年の挙人。外交官を経て張之洞の幕僚となり,鉄道,造兵などの役につき,また立憲運動にも参加,「予備立憲公会」の領袖となった。のち錫良や盛宣懐のもとで借款導入,鉄道国有策を推進,湖南布政使となった。辛亥革命後,退位した宣統帝溥儀の教育に従事し,復辟運動に参加,1932年満州国が成立するとその国務総理となった。詩人としては陳三立と並び称され,江西詩派最後の大家とされる。詩集に『海蔵楼詩集』がある。書家としても有名で,顔真卿,柳公権,黄庭堅や北碑を学び,楷書,行書にすぐれる。 1860-1938 清(しん)(中国)の外交官,政治家。神戸大阪総領事をつとめ,のち上海で実業に従事しつつ立憲運動を展開。辛亥(しんがい)革命後は清朝の復興をめざし愛新覚羅溥儀(あいしんかくら-ふぎ)の教育にあたる。1932年満州国初代国務総理となるが,1935年辞任。江蘇省出身。 中国、清末から満州国時代にかけての政治家。日清戦争まで公使館書記官、神戸大阪総領事として在日。帰国後、立憲運動、鉄道国有化政策に参画したが、辛亥革命で失敗。のち、天津で清朝再興を策動。一九三二年、満州国成立とともに、国務総理となった。 [1860〜1938]中国、清末・満州国の政治家。福建省閩侯びんこう県の人。清末の立憲運動、鉄道国有化政策に参画。1924年以後、宣統帝の教育に当たり、32年、満州国の国務総理に就任。 中国,清末民国初期の政治家。福建省の人。1882年の挙人。初め外交面で,のち張之洞・盛宣懐のもとで鉄道行政に活躍した。1924年以降溥儀の教育を担当し,満州国の初代国務総理。著書《海蔵楼詩集》《孔教新編》など。書家としても著名。 出【鄭孝胥 Zhèng Xiào xū】 1860‐1938 中国,清朝の旧臣,書家。福建省閩(びん)県の人。字は太夷,号は蘇龕。光緒8年(1882)郷試の首席。総領事として神戸に在住したが,日清戦争のため帰国。満州事変後は溥儀を助け,満州国国務総理となった。すぐれた儒学者として王道の実現を理想としたのは有名であるが,また詩書をよくし,とりわけ書は,古樸な独自の風格が世人に愛された。書室を海蔵楼といい,《海蔵楼詩集》などの著がある。 ◆建築 主屋、3つの画室、茶室、持仏堂、夕佳門などが敷地内に点在している。すべて関雪が設計した。 ◈「主屋(書斎、居間、客間)」は、書院造、2階建。 ◈大画室「存古楼(ぞんころう)」(52畳)は、池の西にある。関雪が大作の絵を描いた。部屋はガラス戸であり、庭園の鑑賞の起点が置かれている。東正面には大文字山(如意ヶ嶽)が望める。関雪は、五山送り火「大文字」を池面に逆さに映す位置に建物を建てた。二階建。 ◈「持仏堂」は、堂前に平石の礼拝石がある。方3間、宝形造。 ◈「洋館」(現在は、「レストラン・ノアノア」)(国登録有形文化財)は、昭和期(1926-1989)初期、1929年とも、建立による。スパニッシュ風、地中海様式になる。関雪が欧州で蒐集した品を展示していた。戦後は、米軍接収住宅になる。その後、パスタハウスとして利用されている。鉄筋コンクリート造、二階建(地下一階付)、瓦葺。 ◈「美術館」は、2014年に開館した。2階建になっており、1階では橋本関雪の作品、資料、蒐集品などを展示公開している。2階は展示室になる。展望テラスからは、東に庭園と大文字山(如意ヶ嶽)を眺望できる。 ◆茶室 3つの茶室がある。妻・よねのために、意匠を凝らし高台寺・圓徳院写しの本席「憩寂庵(けいじゃくあん)」、庵間「倚翠亭(いすいてい)」、「如舫亭(にょほうてい)」がある。 ◆文化財 関雪の描いた日本画作品、作品草稿、スケッチ類、陶器、古今東西の蒐集した美術品など、2000点を所蔵・展示している。 ◆仏像 持仏堂に、「地蔵菩薩立像」(重文)が安置されている。鎌倉時代作になる。 ◆庭園 池泉回遊式庭園(7400㎡)は、近代、1916年に完成し、その後、30年にわたり手が入れられている。すべて関雪の作庭により、植木職人を指示して完成させた。奈良本辰也は「画人の庭」と呼んだ。6、7回にわたり敷地の拡張も行われている。2003年「白沙村荘庭園」として国の名勝に指定された。 東の大文字山(如意ヶ岳)を借景として、琵琶湖疏水から水を引き、3つの池を配している。庭の各所に、建物、茶室、中門などが配されている。五山の送り火(8月16日)には池に「大」の字が映る。庭は、この日のわずか30分のために生み出された。苔地を進む苑路が庭を巡る。さまざまな石橋が架けられ、飛石があり、楓などの樹木が生い茂る。各所に四季の草花が植えられている。10数本の赤松、持仏堂には白松の植栽があり、関雪が中国より持ち帰ったという。 平安時代-鎌倉時代の石燈籠、国東より移された石塔群、石仏なども全国から集められ配されている。これらの石像美術の総数は180点にも及ぶ。庭園と石の配置、構成について高く評価する見方と、否定的な見方がある。ただ、構成は吟味され、破綻は見られない。庭園北西の竹林には、さまざまな表情を見せる石仏群「薮の羅漢」がある。 ◆石造物 庭園内に数多くの石造物がある。 ◈「七重層塔」は、持仏堂前にある。平安時代初期の作になる。富田林八幡宮の旧物になる。高さ3m、松香石製。 ◈「十一重塔」(重美)は、西部庭園西にある。平安時代作であり、香川・善通寺の持宝院より移された。角礫質凝灰岩(豊島石)製。 ◈「国東大石塔」は、入口左手築山に立つ。鎌倉時代作になる。高さ4.2m、凝灰岩製。 ◈「九重塔」は、鎌倉時代作になる。伊賀より移された。 ◈「十三重石塔」は、池中央西岸にある。鎌倉時代作であり、基礎に「永仁六年(1298年)」の銘がある。 ◈「六重層塔」は、持仏堂西にある。鎌倉時代作であり、初重軸部に「元応元年(1319年)」の銘がある。かつて七重塔だったとみられている。滋賀日野・浄教寺より移された。 ◈「宝篋印塔」は、西部庭園を北に出た地にある。鎌倉時代作、基礎に「応永六年(1293年)」と刻まれている。花崗岩製。 ◈「板石仏」は、南北朝時代作になる。 ◈「国東宝篋印塔」は、西部庭園を北に出た地にある。南北朝時代作になる。塔身に「永徳二年(1382年)」の銘がある。九州・国東より移された。相輪宝珠四方に火焔形が見られる。凝灰岩製。 ◈「六地蔵石幢」は、西部庭園、池北岸にある。室町時代作になる。花崗岩製。 ◈「観音石幢」は安土・桃山時代作、高さ1m。 ◈「大仏殿燈籠」は、安土・桃山時代作、高さ2m。 ◈「礎石蹲」は 但馬・国分寺より移された。直径1m。 ◈「鞍馬石」は、持仏堂前にある。大きな舞台石であり「鬱勃縦横」と刻まれている。 ◈「国東石幢」は、高さ1m。 ◈石仏群「薮の羅漢」は、竹林に置かれ、さまざまな表情を見せる。 ◈ほかに、磨崖仏などがある。 ◆関雪桜 琵琶湖疏水沿いの哲学の道には、「関雪桜」(ソメイヨシノ)と呼ばれる桜並木が続く。 当初は妻・よねが、何か人のためになることをと考え植えた。自ら蓄えたお金をもとに、1922年(1921年とも)より亡くなる1932年まで、2kmの道に400本(300本とも)もの若木を植栽し続けたという。 妻没後、関雪は戦時中も、植木屋を使い苗木の手入れを続けている。桜並木は後に関雪桜と呼ばれるようになる。後、桜並木は、疏水の改修工事の際に伐採されるなどした。初期に植えられたものは現在は、10数本が残るのみといわれている。 疏水沿いに漢詩の碑が立つ。1943年に関雪が、妻・よねの13回忌を期して、妻と桜を偲んで建立した。 七言絶句「朶雲圧水一渠斜 春伴潺湲遶我家 悩殺幽人残夜夢 風々雨々不離花 白紗村人」。 朶雲(だうん)水を圧して、一渠(いっきょ)斜によぎる。春は潺湲(せんかん)を伴い、我家を遶(めぐ)る。悩殺す幽人、残夜の夢。風々雨々、花を離れず。(桜の塊が、まるで水を圧するかのように咲き誇り、疏水が斜めに過ぎる。春になると、我家の周りを水がさらさらと流れ、私は明け方の夢に、心かき乱されている。風につけ雨につけ、花のことが心から離れない。) ◆花暦・樹木 ツツジ、サルスベリ、紅葉など。ハクショウがある。 ◆年間行事 関雪忌(2月26日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『白紗村人随筆』、『落花流水』、『京都府の歴史散歩 中』、『アサヒグラフ別冊 日本編66 橋本関雪』、『師とするものは支邦の自然 橋本関雪』、『京都の近代化遺産 近代建築編』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都 神社と寺院の森』、『週刊 日本庭園をゆく 4』、『週刊 京都を歩く 4 銀閣寺周辺』、当館の案内書・ウェブサイト、ウェブサイト「散策とグルメの記録」、『京都 神社と寺院の森』、『京都の歴史10 年表・事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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