嘉陽門院御墓・柳殿御所跡 (京都市右京区)  
grave of Princess Kayo-monin
嘉陽門院御墓 嘉陽門院御墓
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賀陽門門院墓、柳殿御所跡


 太秦安井に嘉陽門院御墓(かよう-もんいん-みはか)はある。かつてこの地には、祖母・七条院の柳殿御所があった。
◆歴史年表 平安時代-鎌倉時代、この地には、第82代・後鳥羽天皇の母・七条院(1157-1228)の柳殿御所があった。
 鎌倉時代、1273年、後鳥羽天皇皇女・嘉陽門院が亡くなり、安井御所近くのこの地に葬られた。かつてこの地に、斎院があったからともいう。
 1309年、第91代・後宇多天皇により寄進された柳殿御所跡に、南浦紹明(なんぽ-しょうみょう)の塔所(祥雲庵)が創建される。
◆七条院 平安時代後期-鎌倉時代前期の女性・七条院(1157-1228)。名は殖子(しょくし)、法名は真如智。京都の生まれ。父は後白河院近臣・修理大夫(贈左大臣)・藤原信隆、母は藤原休子。当初、第80代・高倉天皇中宮・平徳子(建礼門院)に仕え兵衛督局といわれた。高倉天皇の典侍として、1179年、第2皇子・守貞親王(後高倉太上天皇)、1180年、尊成(たかひら)親王(第82代・後鳥羽天皇)を産んだ。1183年、後鳥羽天皇の即位により、1190年、従三位を授けられ、三宮に准じられる。院号宣下を受け七条院と称した。1205年、出家し、真如智と称した。72歳。
 国母として権勢を有した。鳥羽天皇より水無瀬殿など多くの七条院領を譲られる。姪・西御方(坊門信清の娘)が後鳥羽との間に産んだ道助法親王を猶子として養育した。  
◆嘉陽門院 鎌倉時代前期の皇族・嘉陽門院(かよう-もんいん、1200-1273)。礼子内親王。第82代・後鳥羽天皇の第2(第3とも)皇女、母は坊門局(内大臣坊門信清の女)。1204年、5歳で内親王宣下、准三宮、賀茂斎院に卜定された。1205年、左近衛府へ初斎院になる。1206年、紫野院へ入る。1212年、病により退いた。その後、祖母・七条院と同居した。1214年、院号宣下。1220年、同母兄弟・道助入道親王により出家し、法名は真如性と号した。1221年、承久の乱後、賀茂斎院は廃絶し、歴代最後の斎院になる。74歳。
 柳殿御所跡(龍翔寺旧地)に葬られた。
◆南浦紹明  鎌倉時代中期-後期の臨済宗の僧・南浦紹明(なんぽ-じょうみょう、1235-1308)。俗姓は藤原、諡号は円通大応国師。駿河(静岡県)に生まれた。建穂寺の浄辨に天台宗を学ぶ。1249年、15歳で剃髪受戒、鎌倉・建長寺の蘭渓道隆に師事、1259年、入宋、杭州・浄慈寺の虚堂智愚に学び後に法嗣。1265年、虚堂に従い径山・万寿寺に移る。1267年、帰国、建長寺の蘭渓に参じ蔵主、1270年、筑前・興徳寺、1272年、太宰府・崇福寺、1304年、後宇多法皇(第91代)の詔により上洛、洛西安井・韜光庵(とうこうあん)に住した。1305年、東山・万寿寺に入る。法皇による東山・嘉元寺開山は成らなかった。1307年、北条時貞の帰依により建長寺に入る。塔所は鎌倉・天源塔、筑前・崇福寺の瑞雲塔、京都安井・龍翔寺にある。門弟多く、臨済禅大応派の祖。74歳。
 没後、1309年、後宇多法皇に贈らた国師号「円通大応国師」は日本初例になる。
◆墓 墓石は小五輪塔になる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献・資料 『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」   



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map 嘉陽門院御墓・柳殿御所跡 〒616-8081 京都市右京区太秦安井池田町 
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