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御辰稲荷神社 (京都市左京区) Otatsu-inari-jinja Shrine |
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御辰稲荷神社 | 御辰稲荷神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本殿 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 福石大明神 ![]() 福石大明神 ![]() 福石大明神 ![]() 亀石大明神 ![]() |
御辰稲荷神社(おたつ-いなり-じんじゃ)は、かつて平安神宮北側一体に広がる深い「聖護院の森」の東南にあった。 「飯成社(いいなりのやしろ/いなりのやしろ)」、「お辰稲荷」とも呼ばれ、五穀豊穣を祈願した。町内鎮守社、霊夢稲荷になる。 祭神は中央に宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)、左に猿田彦神(さるたひこのかみ)、右に天宇受売神(あまのうずめのかみ)を祀る。 芸能上達、芸事を好んだ狐の伝承に因み、かつて芸妓らの信仰があった。怪我を防ぐ神、商売繁盛の祈願もある。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 かつて、聖護院の森の東南、田圃の中に祀られていたという。この地は、古墳跡ともされ、お辰狐を祀り、飯成社と称されたという。(『花洛名勝図会』) 江戸時代、1705年頃、宝永年間(1704-1711)とも、第113代・東山天皇に仕えた典待・新祟賢門院の夢枕に白狐が現れた。辰の方角(東南東)の森で待つようにとのお告げがあった。その方角の聖護院の森に行くと祠があり、その後、社殿を整備したという。(社伝) ◆新崇賢門院 江戸時代の新崇賢門院(しんすうけん-もんいん、1675-1710)。女性。名は慶子、賀子(よしこ)。父・櫛笥隆賀(くしげ-たかよし)。母・西洞院時成の娘。第113代・東山天皇の後宮、新大典侍になる。第114代・中御門天皇、直仁(なおひと)親王、3皇子1皇女を産む。天皇退位後、一条局、四条局と称した。35歳。 没後、1711年、従二位を追贈され、准三宮、院号を受けた。 ◆白狐 当社は、芸事を好んだという白狐・御辰狐(初辰大明神)を祀る。 かつて聖護院の森には白狐が棲んだ。夜更けになると、その狐の弾く琴の調べが聴こえてきたという。 「京の風流狐は碁の好きな宗旦狐と、琴の上手な御辰狐」と歌われた。宗旦狐とは、茶人・宗旦に化けた狐であり、相国寺境内に宗旦稲荷神社として祀られている。 御辰狐の「辰」は「達」につながり、芸事の上達を願う人々の信仰はいまも続いている。 ◆福石 境内には、幸福、願い事のかなう福石大明神も祀られている。 かつて、白川橋のほとりに貧しい夫婦が住んでいた。百日の願掛けの日に、妻が手にした真っ黒い小石を神棚に祀り祈ったところ、すぐに身籠り美しい娘を産んだという。 やがて娘は大名のお部屋様になり、夫婦は幸せに暮らしたという。 ◆年間行事 節分祭(2月2日-3日)、初午祭(午の日)、例大祭(5月3日)、お火焚祭(11月15日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』、『稲荷信仰と宗教民俗』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都大事典』、『京都のご利益手帖』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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