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鴨川の和歌の碑 Monument of Kamogawa River Waka |
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鴨川の和歌の碑 | 鴨川の和歌の碑 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【参照】歌碑付近の鴨川、冷泉橋の左が鴨川、右手から疏水の一部が鴨川に注いでいる。 ![]() ![]() 【参照】冷泉通の表示板 |
西流してきた琵琶湖疏水は、丸太町橋下流で鴨川に行き着く。これより南下し、鴨川と平行して流れ始める。 この付近、冷泉通と川端通の交差する北西角の歩道脇に、鴨川を詠んだ平安時代-鎌倉時代の和歌4首の歌碑がある。 ◆歌碑 ◈ 「ちはやぶるかもの川べの藤波はかけてわするる時のなきかな」、兵衛。 ◈ 「霜うつむかものかはらになく千鳥氷にやどる月やさむけき」、良経。 ◈ 「心すむためしなりけりちはやぶるかものかはらの秋の夕ぐれ」、後鳥羽院。 ◈ 「桜花ちりかひかすむ春の夜のおぼろ月夜のかもの川風」、実朝。 ◆兵衛 平安時代前期の歌人・兵衛(?-? )。詳細不明。女性。父・公卿・藤原兼茂(?-923)。 ◆九条良経 鎌倉時代前期の公卿・歌人・九条良経(くじょう-よしつね、1169-1206)。男性。号は中御門殿、後京極殿。父・関白・兼実、母・藤原季行の娘の次男。1179年、元服した。1185年、従三位。1188年、兄・良通が 急逝し九条家を継いだ。1189年、権中納言、権大納言兼左大将、1195年、内大臣に進む。1196年、源(土御門)通親の策謀により、父・関白兼実が失脚し、良経も籠居した。1199年、閉門を許されて左大臣になる。1202年、通親の死去に伴い、第83代・土御門天皇の摂政になる。1204年、従一位、太政大臣になった。1206年、急逝した。寝所で刺殺されたともいう。38歳。 代表的歌人の一人で、後鳥羽院歌壇で活躍した。『花月百首』、『六百番歌合』などを主宰した。和歌所設置(1201)に際して寄人筆頭になる。『新古今和歌集』の撰修に関し、仮名序の作者になる。自撰家集家集『秋篠月清集(月清集)』は「六家集」の一つ、漢詩集『後京極摂政詩集』がある。書道の後京極流の始祖、有職故実も研究した。 ◆後鳥羽天皇 平安時代後期-鎌倉時代前期の第82代・後鳥羽天皇(ごとば-てんのう、1180-1239)。男性。京都の生まれ。諱は尊成(たかひら)、法名は良然、別名に顕徳院、隠岐(おきの)院、後に後鳥羽院。父・第80代・高倉天皇、母・准后七条院藤原殖子(やすこ/しょくし、坊門信隆の娘)の第4皇子。1183年、平氏は、第81代・安徳天皇(後鳥羽天皇の兄)、第2皇子・守貞(もりさだ)親王を伴い都落ちする。都には天皇不在になり、祖父・後白河法皇(第77代)の詔により、神器がないままに尊成親王が4歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)した。一時、天皇が2人存在する事態になる。1184年、即位の式を挙げた。1190年、元服する。1192年、院政を敷いた後白河法皇の没後、4歳の後鳥羽天皇の親政になる。実権は関白・九条兼実、1196年、その失脚後は源(土御門)通親が握った。(建久七年の変)。1198年、幕府の反対を押し切り、皇子・為仁親王(第83代・土御門天皇)に譲位し院政を始める。以後、第84代・順徳天皇(土御門の弟)、第85代・仲恭天皇(順徳の子)と3天皇に23年に渡り院政を敷いた。1199年、上皇により九条良経が左大臣に任命され、九条家が復帰した。1202年、通親の没後は、強権的になる。1219年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の暗殺後、幕府は後継将軍として上皇皇子を要請する。上皇は拒絶し、幕府からの政権奪取を目指し、畿内、近国の兵を集める。1221年、執権・北条義時追討の宣旨を出して挙兵し、承久の乱になる。幕府が上洛させた北条泰時らの大軍に上皇方は敗れる。鳥羽殿に幽閉され、出家し良然(金剛理とも)と称した。幕府は平氏に育てられ即位していない、兄・後高倉院に院政を執らせた。仲恭天皇は退位し、1221年、第86代・後堀河天皇(後高倉院の子)を即位させる。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を配流した。後鳥羽上皇は隠岐に流される。1235年、遷京の動きは幕府により拒否された。1239年、隠岐での18年の生活の後に同地苅田で没した。60歳。 第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇、第85代・仲恭天皇の3天皇に院政を敷いた。西面の武士を新設する。白河に最勝四天王院を建て、水無瀬、鳥羽、宇治などに院御所を営んだ。1198年以来、熊野詣は28回に及ぶ。芸能(蹴鞠、琵琶、笛)、武技(流鏑馬、犬追物、相撲、水泳)、刀剣鍛造も行った。和歌にも長じ、1201年、和歌所を設ける。千五百番歌合は名高い。藤原定家らに『新古今和歌集』(1205)を勅撰させた。日記『後鳥羽天皇宸記』がある。 上皇の死の前後に、1234年、第85代・仲恭天皇、第86代・後堀川天皇、1240年、北条時房、1242年、北条泰時らが相次いで亡くなる。無念の死を遂げた上皇の怨霊による仕業と怖れられた。上皇の当初の諡号は顕徳院であり、祟りを怖れ、後鳥羽院に改められた。 火葬塚は、島根県隠岐郡海士町にある。1658年、松江藩主・松平直政が修理した。遺骨は大原陵(左京区)に葬られる。 ◆源実朝 鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代の将軍・歌人・源実朝(みなもと-の-さねとも、1192-1219)。 男性。幼名は千幡(せんまん)。鎌倉の生まれ。父・初代将軍・頼朝、母・政子。1203年、2代将軍・兄の頼家は、比企氏の乱で外戚・北条時政により伊豆に幽閉される。廃された兄に代わり将軍に就く。当初は時政、政子、義時の補佐、後見があった。1204年、後鳥羽上皇(第82代)の母・七条院の姪の坊門家である権大納言・藤原信清の娘を妻にした。1209年、従三位になり、将軍家政所下文を発して政所に実権を集める。1213年、時政は、和田義盛を倒し、北条氏による執権政治の基礎を築く。1218年、右大臣正二位にいたる。1219年、鶴岡八幡宮の社頭での拝賀式で、頼家の遺児で甥・公暁(くぎょう)に暗殺された。子はなく、源氏将軍は3代で断絶した。28歳。 渡宋の計画は果さなかった。蹴鞠に長じる。万葉調の歌人として知られ、家臣を通じ藤原定家の指導を受ける。『万葉集』『古今和歌集』などを研究した。定家の歌論書『近代秀歌』は実朝に進献されている。92首が『勅撰和歌集』に入集、『小倉百人一首』にも選ばれた。家集『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』3巻がある。 *参考文献・資料 説明板、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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