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貫名海屋旧宅跡 (京都市左京区)  
Nukina,Kaioku Former Residence Site
貫名海屋旧宅跡 貫名海屋旧宅跡
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「貫名海屋旧宅地跡」の石標




【参照】「蓼倉町」の町名


【参照】「松ノ木町」の町名
 下鴨神社境内の北西、松ノ木町(まつのき-ちょう)に、「貫名海屋旧宅地跡(ぬきな-かいおく-きゅうたくち-あと)」の石標が立つ。
 かつてこの地に、江戸時代後期の儒者・書家・文人画家・貫名海屋(ぬきな-かいおく)が住したという。海屋は下鴨神社の学問所に奉仕した。
◆歴史年表 変遷の詳細不明。
 江戸時代、晩年の貫名海屋は京都・岡崎に移り、さらに下鴨に移り住む。
 1856年頃、秀穂舎塾主宰・鴨脚秀静に、公文所・学問所に招かれている。
 近年、下鴨風土記研究会により石標が立てられた。
◆貫名 海屋 江戸時代後期の儒者・書家・文人画家・貫名 海屋(ぬきな-かいおく、1778-1863)。男性。本姓は吉井、名は苞(しげる)、直知、直友。字は子善、君茂。通称は政三郎、省吾、泰次郎、別号は海仙、海客、海屋、海叟(かいそう)、菘翁拾翠(すうおう-しゅうすい)、拾翠野客、林屋、鴨干漁父、方竹山人、須静(堂)主人、三緘(堂)主人など。71歳頃より菘翁、摘菘翁、菘叟を用いた。阿波(徳島県)御弓町の生まれ。藩家老・稲田淡路守の弓術指南・吉井直幸/直好の2男。吉井家は初代の祖父・直房以来、阿波藩主・蜂須賀家に小笠原流の礼方として仕えた。幼少期より漢籍・書・画に専念する。書は徳島・西宣行(双渓)、絵(狩野派)は藩の絵師・祖父・矢野典博(やの-のりひろ)に学ぶ。1795年頃、17歳で叔父・霊瑞を頼り高野山に上り、山内の図書を学ぶ。空海の真跡を見て書法に心酔したという。下山後、1800年頃、22歳で大坂の儒者・中井竹山の「懐徳堂」に入り、儒学を修め塾頭になる。1805年頃、27歳の時、遠祖・貫名氏に改めた。書画研究のため諸国を遊歴し、長崎で日高鉄翁(鉄翁祖門)に南画を教授される。鉄翁の師である清の画家・江稼圃の影響を受けた山水画を描いた。東海道、中山道、江戸を度々遊歴し、のち京都・岡崎に私塾「須静塾」を開き儒学を講じた。晩年、下鴨に移り菘(すずな、蕪)の産地に因み菘翁と称した。賀茂御祖神社に奉仕する。1848年頃、70歳の時『皇都書画人名録』に、書家・儒教者・詩人として名が挙げられる。1853年頃、75歳の時『鍳禅画適』に画人名家として載る。この頃、詩・書・画をよくする文人として知られる。1856年頃、秀穂舎塾主宰・鴨(脚)秀静に公文所・学問所に招かれる。塾の子らに書・歴史を教え、宮中での神道・古典の講義なども行う。神社の西に「蓼倉(たでくら)文庫」を建て住し、蔵書の中から神社に納めた。最晩年、中風を患い「中風様」と呼ばれる傑作を残す。書作品「白玉井銘」、著『須静堂詩集』『永源寺秋景図』など。86歳。
 漢詩にも優れた。書風は流麗で伸びがある。晋・唐の古碑法帖(こひ-ほうじょう、書道の手本)、佳拓(紙に写し取ったもの)を多数収蔵し、原拓本による臨書(書写)により学んだ。さらに、日本の平安時代の古名跡に注目し、加味・折衷し優美な書風を確立した。書家として「京都第一」とされ、「幕末の三筆(ほかに江戸の市河米庵[いちかわ-べいあん]、江戸の巻菱湖[まき-りょうこ])」の一人に数えられた。また、「江戸の米庵、上方の海屋」と評された。後世に大きな影響を与え、蒐集した法帖類は、現在でも書道資料として高評価されている。
 墓は高台寺(東山区)にある。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
参考文献・資料 『京都大事典』『』、ウェブサイト「福岡教育大学書道科所蔵書跡目録解題(四) 日本書跡(1) 」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 貫名海屋旧宅跡 〒606-0816 京都市左京区下鴨松ノ木町
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