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| 竹村家橋跡 (京都市中京区) Site of Takemuraya Bridge |
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| 竹村家橋跡 | 竹村家橋跡 |
![]() 鴨川西岸、竹村家橋跡 ![]() 竹村家橋跡の石組(上段)、下段はせせらぎ川の石垣 ![]() 竹村家橋跡の脚石 ![]() 脚台跡(幅1m98㎝)を上から見下す ![]() 竹村家橋跡から東側の景色、手前がせせらぎ川、鴨川河川敷、奥に鴨川 ![]() 竹村家橋跡に通じる行き止まりの小路(鍋屋町) ![]() 「先斗町竹むら屋」の広告、右端に橋の一部が描かれている。『京の三名橋 四条大橋 中』より ![]() ![]() 地蔵尊、鍋屋町 ![]() 先斗町 ![]() 先斗町通 ![]() 先斗町通 ![]() 大和橋 ![]() 江戸時代後期、「花洛名勝図会」(1864年)に描かれた大和橋・白川、橋の説明板より ![]() 白川 ![]() 旧車道 |
かつて「竹村家橋(たけむらけ-はし)」という木造橋が、四条大橋西岸北に架かっていた。橋の西詰にあった料亭「竹村家」が、私費で架けたことからこの名が付いた。 本名は「車道橋(くるまみち-はし)」と呼ばれ、橋近くに鴨川に入る車道があった。 ◆歴史年表 竹村家の詳細不明。竹村家橋の架橋年も不明。 近代、1935年、6月、竹村家橋は「鴨川大洪水」により流出し、その後の鴨川改修で消滅したという。 その後、竹村家は廃業している。 ◆竹村家橋 ◈木造の竹村家橋の架橋年は不明という。四条大橋の北一町(100m)ほどの所に架けられていた。本名は「車道橋(くるまみち-はし)」と称した。橋の西詰、先斗町(ぽんと-ちょう、実際の町名は鍋屋町)にあった料亭(懐石料理屋)「竹村家」が私費で架けたことからこの名が生まれた。周辺にはほかに、「松村屋」「梅村屋」などの料亭があったという。 竹村家橋は、長さ46間(83.6m)、幅1間1尺(2.1m)あった。鴨川西岸の先斗町から対岸(東岸)の川端町に通じていた。四条河原の夕涼みに不可欠な橋であり、橋の東から6分位のところに、河原に降りる掛け橋が設けられ、手摺も付けられていた。橋は鴨川洪水の度に流されたという。 後に竹村屋は廃業し、跡地には鶏肉(かしわ)料理屋「菊水」が入った。後に、これも廃業したという。その後、お茶屋になったという。現在は、路地になっている。 ◈鴨川には牛馬が曳く荷車の通る車道が、荒神橋、三条大橋、四条大橋にあった。当時の荷車には鉄輪がはめられていたため、木橋を通ると損傷しやすいとして、荷車は橋を渡れず橋下で渡河していた。 四条大橋での車道は、橋の上流と下流に橋に並行してあったという。竹村屋橋近くの車道は、鴨川東岸の北東方向にある縄手通に架かる大和橋南詰を西へ進み、北東から南西に流れる白川の流れに沿っていた。鴨川に差し掛かると竹村屋橋の東橋詰上流から河原に下り、鴨川を渡って竹村屋橋の西橋詰から上っていった。 ◆竹村橋跡 竹村屋橋の跡としては、次のものがある。 ◈四条大橋の鴨川西岸上流、先斗町(鍋屋町)側に東西方向の小路があり、西側は先斗町通と交差し、東側は行き止まりになっている。付近はかつて、橋の西詰に当たっていた。現在は脇に地蔵尊が祀られている。鴨川側から見ると、みそそぎ川の石積の上に、川床の空白地があり、橋台に利用されたとみられる石積が残されている。 ◈鴨川東岸側では、大和橋(東山区繩手通四条上ル)の南詰に、白川に沿う形で西に入る小路がある。かつて、この小路の俗称は「車道」だったという。車道から、現在の川端通に出て左折したところが竹村家橋の東詰だったという。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京の三名橋 四条大橋 中』、『京都・鴨川と別子銅山を歩く』、ウェブサイト「コトバンク」 |