|
|
|
| * | |
| 牧畜場記念碑・明治天皇行幸所牧畜場阯 (京都市左京区) Livestock Farm Monument |
|
| 牧畜場記念碑 | 牧畜場記念碑 |
![]() 「牧畜場記念碑」 ![]() 「明治天皇行幸所牧畜場阯」 ![]() 【参照】旧地、京都大学東南アジア研究センター敷地内 ![]() 【参照】旧地、京都大学東南アジア研究センター内 ![]() 【参照】鴨川のダッチ・クローバの群生 |
京都大学稲盛財団記念館の敷地北西に、「牧畜場記念碑(ぼくちくじょう-きねん-ひ)」、その左に「明治天皇行幸所牧畜場阯(めいじてんのう-ぎょうこうしょ-ぼくちくじょう-あと)」の石標が立てられている。 近代、京都府知事・長谷信篤の時、この地に勧業政策の一環として、牧畜場を開き西洋式牧畜を始めた。良種の牛・羊の繁殖、牛乳・乳製品製造、羊毛販売などが行われていた。 地方公共団体が開いた牧場としては日本初といわれている。 ◆歴史年表 歴史年表 近代、1871年、9月、京都府は官営牧畜場の設立を計画する。山城国(京都府)中に牧牛の奨励を布告し、政府に米国産牛買入伺書を申請した。10月、許可され、牧畜場用地として愛宕郡吉田村聖護院の旧練兵場敷地の払下方を大蔵・兵部両省に申請する。 1872年、2月8日、同地の鴨川東畔(現、左京区吉田阿達町)の払下を受け、「官立京都府牧畜場」を設置した。米国より輸入した牛 ・羊の飼育を始めた 。その際、輸入牛の付添人として来日した在米ドイツ人・ジョンソンが農牧の務に従事した。 1873年、5月/3月、米国人・ジェームズ・オースタイン・ウィードを「京都府御用地」に農牧教師として雇い入れ、農牧学を講じさせ実地に経験させた。11月、正式に「牧畜場」と称し、ウィードに農学牧事を教授・指導させた。 1874年、牧畜場は火災になる。 1875年、6月、京都博覧会に出品し、有功賞銅牌を受けたという。 1876年、10月、京都府は、出張所を船井郡須知村の金剛寺に置く。丹波国蒲生野(がもうの)荒蕪地に分場を開墾し、10月/11月、農牧学校を設立した。 1877年、2月1日、第122代・明治天皇の関西行幸の際に、牧畜場にも行幸があった。 1879年、 5月、ウィードの任期満了とともに牧畜場は廃校になる 。6月、牧畜場は家畜・土地建物一切が、京都市の小牧仁兵衛ら3 民間人へ払下げられる。「京都牧畜場」へと変更される。 1880年、12月、牧畜場記念碑は当年に建立する予定で碑文が書かれた。実際には立てられなかった。 1881年、京都牧畜場は七条停車場裏に「京都牧畜場分畜場」を増設する。 1901年、日清戦争・日露戦争による大不況のあおりを受け牧畜場は破産する。京都府所有の牧場も閉鎖になった。 1906年、京都府は、府議会の議決を経て、現在の京丹波町に新たに種畜場を設置した。乳牛・和牛の繁殖・譲渡・試験研究を再開した。 1935年、京都府は、綾部市の現在地に種羊場を設置した。その後、統廃合を行い、現在の「畜産センター」になった。 1938年、京都府により「明治天皇行幸所牧畜場阯」が、現在地付近に立てられた。 1941年、4月、京都搾乳畜産組合により「牧畜場記念碑」が、現在地付近に実際に立てられる。 現代、2008年、京都大学稲盛財団記念館の竣工に伴い、「牧畜場記念碑」「明治天皇行幸所牧畜場阯」2基が現在地に移設された。 ◆長谷 信篤 江戸時代後期-近代の公卿・華族・政治家・長谷 信篤(ながたに-のぶあつ、 1818-1902) 。男性。号は騰雲、梧園、梧岡。 父・高倉永雅。平氏西洞院支流・長谷信好の養子。1858年、日米修好通商条約調印の勅許に反対した尊攘派公卿のひとりだった。国事御用掛、議奏にすすむ。1863年、八月十八日の政変で一時失脚する。1868年、王政復古の大号令に伴い、東久世通禧、岩倉具視らと新政府三職の一つである議定に就任した。1868年-1875年、京都府初代知事に就く。1890年-1902年、貴族院議員になった。85歳。 元老院議官、子爵。 ◆明石 博高 江戸時代後期-近代の医師・化学者・衛生学者・殖産家・明石 博高(あかし-ひろあきら、1839-1910)。男性。名は博人、号は静瀾。京都の生まれ。父・代々の医薬舗「浩然堂」を営む弥三郎、母・浅子。5歳で父が亡くなる。外祖父・蘭方医・松本松翁に育てられ、西洋医術・化学製薬術を学ぶ。14歳頃、桂文郁に古典医学を学んだ。宮本阮甫・武市文造にオランダ語、柏原学介に物理学、錦小路頼徳に解体術、主に新宮凉閣に解剖・生理・薬物・臨床医学、新宮凉民にも学ぶ。田中探山に本草学、辻礼甫に化学・製薬術・測量術を学んだ。1865年、京都医学研究会を創設した。1866年、公家・錦小路頼言(にしきこうじ-よりあき)に入門し、医道免許を受けた。自宅で理科学研究会「煉眞舎(れんししゃ)」を主宰し、理化学・薬学を研究した。1868年、博高は頼言に建議し御所内病院(烏丸一条下ル、施薬院三雲宗順宅)を開設し、医務を担当した。戊辰戦争の死傷者救済を行う。1869年、煉眞舎を三条通室町に移す。大阪・浪華仮病院を創設し、薬局主管・看頭になる。オランダ人・ハラタマ、ボードインらを招く。大阪舎密局のハラタマの助手も務める。1870年、煉眞舎は三井別邸に移る。京都府参事・槇村正直の誘いで京都府に出仕した。京都舎密局を創設し、局長になった。1871年、勧業掛になり、主吏に就く。1874年、京都で日本初の医師免許試験の実施を提言した。1877年、コレラの流行に際して、再流行を予言し検疫制度の採用を提案する。1881年、府知事・北垣国道に代わったため府を辞している。京都舎密局の廃止に際し、払下げを受けた。伏見製作所も払い下げられた。私財を尽くして支援する。1983年、私邸(河原町蛸薬師東入ル)に厚生病院を開き院長を務めた。明石と2人の医師は無給で、診療費も貧富を考慮し「適宜」とした。1884年、京都舎密局は多額の負債で困難をきたし閉鎖している。1887年、厚生病院も廃止され、その後は市井の医師として活動を続けた。著『日本薬泉考』『化学撮要』など。72歳。 槇村正直、山本覚馬、三井源右衛門らと親交があった。博高は数多くの政策・事業に関与している。養蚕場(1871)、鴨東牧畜場(1872)、鉄具製工場(伏見製作所)(1873)、製靴場(1873)、織殿(1874)、染殿(1875)、梅津製紙場(1876)、日本初の小学校、英学校、農学校、女紅場(にょこうば)、博物館、観象台、勧業場(1871)、授産所、療病館(1870)、京都療病院(1872)、避病院(1872)、医学校(1872)、粟田口解剖所(1872)、医務取締制(1872)、医師試験制度(1874)、合薬会社アポテーキ(1874)、京都癲狂院(とんきょういん)(1875)、官立司薬場(1875)、円山吉水温泉などを創設した。京都博覧会開催にも関わる。1873年に、円山の枝垂桜を伐採から守った。 墓は京都市営清水山墓地(東山区)にある。神道のために当初は墓は立てられず、松の木が植えられていた。1959年、明石家、明石博高翁顕彰会により墓が立てられている。 ◆ジョンソン 近代のアメリカ合衆国滞在のドイツ人農学師・ジョンソン(?-?)。詳細不明。男性。農学士。1872年 、「官立京都府牧畜場」の設立に伴い、米国より輸入した牛 ・羊の付添人として来日した。その後、1年間、牧事・飼法を指導した。 ◆ウィード 近代のアメリカ合衆国の農学師・ジェームズ・オースタイン・ウィード(James Austin Weed、1835- ?)。詳細不明。男性。農学者・技術者。1873年、京都府知事・長谷信篤、山本覚馬らの招聘により来日する。当初は「京都府御用地」に農牧教師として農牧学を講じ、実地に経験させた。11 月、牧畜場の農学牧事を教授・指導した。1876年、京都府農牧学校(現在の京都府立須知高等学校[船井郡京丹波町])の主任教員になる。1879年5月、ウィードは任期満了になり、牧畜場は廃校になる 。 農牧学校は、「日本の3大農業教育の発祥地の一つ」といわれた。須知高等学校学校林「ウィードの森」の名の由来になった。 ◆小牧 仁兵衛 江戸時代後期-近代の実業家・小牧 仁兵衛(こまき-じんべえ、1861-?)。詳細不明。男性。京都市の生まれ。1883年、牧畜業に専念し牧場経営にあたる。1891年、煉乳工場を経営したともいう。1895年、鉱山銀行の経営に専念し、牛乳小売人・松原栄太郎(後の松原牛乳の創始者)ら4人に乳牛200 頭を分与し、1899年、経済不況により破産した。1901年、牛乳販売の店舗(河原町三条上ル)は廃業した。 鴨東銀行重役。 ◆松原 栄太郎 江戸時代後期-近代の実業家・松原 栄太郎(1852-?)。男性。岐阜県の農家の生まれ。7歳の時、父を失い、9歳で母が行方不明になり伯母に育てられ、18歳で独立した。1873年、京都へ移り、府知事・槇村正直の車夫として働く。1876年-1891年、小牧仁兵衛が経営する京都府牧畜場の配達人に雇われ、五条以南を担った。当初の配達量は1日9合であり、1879年には配達量を1日8升まで伸ばした。1895年、小牧が鉱山銀行に専念したため、搾取人・栄太郎らは乳牛の運営管理を委任される。経済不況と1897年に流行した牛疫で、1899年、経済不況により破産した。その後、松原1人が京都牧畜場を継承し、1909年、京都牧畜場松原搾取分場として独立した。 松原牛乳の創始者になる。その後、親族に代々継承され、1955年、松原牛乳株式会社と名称を変更した。2000年、全国農協直販(現・雪印メグミルク)に譲渡併合された。 ◆牧畜場 江戸時代後期、1867年の大政奉還後、近代、1869年に東京奠都が行われた。京都府初代知事・長谷信篤(1818-1902)は、1870年に「京都府施政の大綱に関する建言書」などにより京都の復興施策を行った。 1871年に明石博高(1839-1910)は、ドイツ人・レーマン(?-?)とともに牛乳の飲用奨励のために、府下より乳牛を集め搾乳した。当時の医師も含め、一般には牛乳の効能など知られず需要は伸びなかった。余剰の搾乳で練乳を製造したという。 1871年9月13日に、復興施策の一環として官営牧畜場の設立が計画される。山城国中に牧牛奨励の布告を発し、政府に米国産牛買入伺書を申請した。10月、政府から設立が許可され、牧畜場用地として明石の発議により、愛宕郡吉田村聖護院領の兵部省旧練兵場敷地(2万9000坪、9.5ha)の払下方を大蔵・兵部両省に申請する。なお、1871年時点で、京都付近・山城一円で牛4713頭が飼育され、大部分は耕牛・小荷駄牛(兵糧食運搬)・運搬牛だった。食用牛はなく、乳牛も3頭のみだった。また、当時は外国種に比べ、国内種の牛・羊などは体格・性質ともに劣っていると認識されており、良種の繁殖・改良を目的としていた。 1872年2月8日、京都府は鴨東畔3町7 反3畝4歩(3.7ha)(現、左京区吉田阿達町、神宮丸太町駅の東側付近、現在の京都大学医学部付属病院周辺)の払下を受けた。勧業基立金により2万2942円を充てた。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ産の牛34頭(デボン種)、羊19頭を輸入し飼育を始めた。なお、このデボン種とは、紅褐色・肉牛の「ノースデボン種」ではなく、淡褐色・酪肉兼用種の「サウスデボン種」とみられている。その際に、在阪の外国商社レーマン・ハルトマン商社を介し、輸入牛の付添人として来日した米国在住ドイツ人・ジョンソン(?-?、ジヨンスシヨンメン)が、京都府に雇用され農牧の務に就いた。当初は半年間の雇い入れ契約であり、1年間契約更新した。牧事・飼法(牛・豚・羊)を指導した。搾乳のほか、「ボートル(バター)」、「ハヲトルミルク(粉乳)」、「コテンツミルク(煉乳)」、「テツキミルク(クリーム)」などを製造・販売した。羊毛採取も行った。牧場内1町四方(9917㎡)を開拓し、米国から持ち込んだ種を播き、牧草用のダッチ・クローバー(シロツメクサ)を育てた。栽培所を設け、林檎・洋種果実なども培養した。なお、同年に京都府は「牛乳の効能並び用方」の令書を発行し、需要の拡大をはかった。 ダッチ・クローバーは、ヨーロッパ原産の多年草であり、アメリカ、アジア、オセアニア、北アフリカなどに分布している。漢字で「白詰草(シロツメクサ)」と書かれるのは、江戸時代にオランダから献上されたガラス製品の緩衝材として、乾燥させたシロツメクサが使用されていたことに由来する。日本では近代以降に、家畜飼料用として導入され野生化した。鴨川でも植生がみられる。 1873年5月/3月、京都府は、米国人・ジェームズ・オースタイン・ウィード(ゼームス・オースタイン・ウヰード、1835- ?)を当初名「京都府御用地」に農牧教師として雇った。ウィードは農牧学を講じ、実地に経験させた。6月に16 条の「牧畜場授業生徒規則」を制定し、実習・農学書聴講の日課、門限、帰省、学資金などについて定めた。たとえば実習は、毎日午前6 時・午後4 時の2 回搾乳し、午前8時にバター・粉乳を製造した。11月、正式に「官立京都府牧畜場」と称し、ウィードは農学牧事を教授・指導した。畜牛・繁殖・搾乳・開塾の教育を行っていた。この牧畜場は、地方公共団体が作った牧場としては日本初といわれている。京都府農学校とともに、1875年の「札幌農学校」、1877年の「駒場農学校」の創立が、日本での「農業教育の三大発祥地」といわれている。 1874年、牧畜場は火災に遭遇した。同年に京都府は「牛乳の効能並び用方」を要約した「牛乳能書」を発行している。 1875年6月に、京都博覧会に製品を出品し、有功賞銅牌を受けたという。翌1876年にも受賞したという。詳細については不明。 1876年10月、京都府は、「牧畜出張所」を金剛寺(船井郡須知村)に置く。丹波国蒲生野(がもうの)荒蕪地に分場を開墾し、11月、「農牧学校(現在の京丹波町、須知高等学校)」を設立した。ウィードは牧畜業と農業教育を行う。 1877年2月1日、第122代・明治天皇(1852-1912)の関西行幸の際に、牧畜場にも行幸があった。 1878年には、牧畜場で米牛110頭、和牛32頭、雑種頭、豚23頭、綿羊126頭が飼育されており、牛乳の加工販売(場内で1合5銭)、飼料作物の栽培も行っていた。 1879年5月、ウィードの任期満了とともに牧畜場は廃校になる 。6月、牧畜場は家畜(畜牛牝牡43頭、犢[牛の子]20頭)・土地建物一切とともに、京都市の鴨東銀行重役・小牧仁兵衛(1861-?)、宅間多兵衛(?-?)、白川村・岡野伝三郎(?-?)の3人へ払下げられる。名称も官立京都府牧畜場から「京都牧畜場」へと変更された。当時は、牛乳配達人が8人おり、さらに5人を追加し、販売は好調だった。後に、宅間・岡野は辞退している。 1881年、京都牧畜場は七条停車場裏に「京都牧畜場分畜場」を増設する。あらゆる家畜を飼養していたという 。 1901年、日清戦争(1894-1895)・日露戦争(1904-1905)による大不況のあおりを受け、京都府所有の牧場は破産し閉鎖する。 1906年、京都府は、府議会の議決を経て、現在の京丹波町に新たに種畜場を設置し、乳牛・和牛の繁殖・譲渡・試験研究を再開する。 1935年、京都府は、綾部市の現在地に種羊場を設置し、その後、統廃合を行い、現在の「畜産センター」になった。 ◆石標 ◈ 近代、1872年に、京都府初代知事・長谷信篤(1818-1902、在任1868-1875)が勧業政策の一環として官立京都府牧畜場を創設した。 1880年12月に「牧畜場記念碑」は、現在地付近に建立の予定だった。第2代知事に就任していた槙村正直(1834-1896、在任1875-1881)の命により、碑の撰は勧業課一等属・明石博高(1839-1910)による。諸般の事情により、実際には立てられなかった。 その後、1941年4月1日に、碑は京都搾乳畜産組合により現在地付近に実際に立てられた。書・秋山興蔵(?-?)による。 ◈ 近代、1938年3月に、京都府により「明治天皇行幸所牧畜場阯」が現在地付近に立てられた。 1877年に第122代・明治天皇(1852-1912)は関西行幸を行っている。ただ、1877年1月29日-9月24日に勃発した西南戦争のために行幸は長期化した。京都には1月28日-2月6日、2月16日-7月28日の2度滞在している。その際、2月1日に牧畜場に行幸があった。 ◈ 現代、2008年に、京都大学稲盛財団記念館竣工に伴い、「牧畜場記念碑」「明治天皇行幸所牧畜場阯」が、南から現在地に移設された。 ◆ほかの牧場 近代において京都には、京都牧畜場以外にも複数の牧場が存在した。 1886年-1888年時点で、岡崎に平安牧場、愛宕郡田中村には林牧場、共新牧場、日進牧場、正進牧場の5牧場が開業していた。山科では、1891年に山科牧場、1898年に西卯牧場、1910年に西口牧場が開場された。 昭和期(1928-1989)初期には、田中・修学院両地区(一乗寺・修学院・山端)に、 5-6の乳牛牧場があった。その後、牧場は次第に郊外へ移転する。 1927年頃には、一乗寺で北川牧場が開場している。修学院校区にはほかに横川牧場、桝本牧場、福田牧場、岡本牧場、瓜生牧場などがあった。 ◆発掘調査 現代、2016 年に京都市役所新庁舎整備に伴い行われた、妙満寺旧地(現在は左京区岩倉に移転)の発掘調査では、「京都牧畜場」銘ガラス瓶が出土した。放生池跡の粘質土層に、旧妙満寺の建物に用いられていた大量の瓦類とともに埋め戻されていた。かつて、方丈池が機能していた時期に投棄されたとみられる。投棄経緯の詳細については不明。 銘ガラス瓶は、薄緑色をしており明治期(1868-1912)に製造されたとみられる。口縁部端部は平坦で、口縁部は幅広の凸帯状をしている。肩部の張りは緩やかで、底部も凹状をしている。器壁には少量の気泡が含まれていた。胴部には圏線内に「京都牧畜場」の銘が入っている。口縁部凸帯下から底部にかけ、型作りの際にできたとみられる凸線が左右対称に確認され、人口(人工)吹き(職人が息を吹き込み成形する手吹き技術)ではなかった。口縁部の形状から王冠栓(プレス加工した円周にひだを持つスカート形状)以前のものと考えられ、京都では最古級の牛乳瓶とみられる。なお、近代、1876年に日本初の本格的なガラス瓶製造が行われている。 高さ11.8 ㎝、底径4.5 ㎝。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 碑文、『近代日本の乳食文化』、ウェブサイト「近代日本の乳受容における菓子の意義―京都の事例を通して」(『近代日本の乳食文化』の再掲)、『明治文化と明石博高翁』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「150年以上続く京都の酪農の歴史のはじまり-京都府農林水産部畜産課」、ウェブサイト「Jミルク」、ウェブサイト「京都府立須知高等学校」、 ウェブサイト「『京都牧畜場』銘ガラス瓶について-京都市埋蔵文化財研究所」、ウェブサイト「四季折々の光景 」、ウェブサイト「コトバンク」 |