三年坂(産寧坂)・泰産寺 (京都市東山区) 
Sannen-zaka Slope
三年坂 三年坂 
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三年坂の最上段からは、東山の山影がかすかに見える。


坂の両側には町屋風の店舗が建ち並んでいる。この坂で転ぶと、三年以内に死ぬという言い伝えも、急坂に気をつけるようにという戒めといわれている。




「明保野(あけぼの)亭」


【参照】清水寺境内南に建つ旧泰産寺の旧子安塔

:【参照】修復後の子安塔
 三年坂(さんねんざか)は、産寧坂(さんねいざか)ともいわれている。八坂から清水寺に通じる急な石畳の坂道(100m)であり、清水寺に通じる清水坂とつながる。付近の地勢は、清水寺の上より流れる轟川が削り出したという。 
◆歴史年表 平安時代、794年、この地は、平安京遷都以前から開けた土地だったという。
 奈良時代、730年、清水寺仁王門前に第45代・聖武天皇光明皇后により泰産寺(たいさんじ)が創建された。皇后は、女帝の第46代・第48代・孝謙天皇を産んだ際に、天照大神により授かったという1寸8分(54㎝)の子安観音を子安塔に安置した。以来、産婦が参詣に訪れるようになったという。
 1179年、延暦寺下の祇園感神院(現八坂神社)との争いで、清水寺の伽藍などが焼失する。寺は、奈良・興福寺、南都の末寺であり、北嶺の比叡山延暦寺と対峙した。三年坂も戦場になり、境界争いの場になった。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、この付近は「三本卒塔婆」と呼ばれていた。墓地を意味していた。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により被災した。その後、社寺などが復興され、門前町として栄える。 
 江戸時代、1685年、「産寧坂」の名が記されている。(『京童』『京羽二重』)
 寛永年間(1624-1643)、子安塔は再建され、当初は清水坂を上り詰めた右手にあったという。豊臣秀吉の正妻・北政所も、子の誕生を念じて高台寺から清水寺に参詣したという。「三年坂」は「産念坂」から転訛したともいう。
 近代以降、一帯は住宅地として再開発された。
 1911年、子安塔は清水寺境内南の現在地に移された。
 1915年、「再念坂」の名も記されている。(『京都坊目誌』)
 現代、1976年、門前町は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。
◆光明皇后 奈良時代の第45代・聖武天皇皇后・光明皇后(こうみょう こうごう、701-760)。藤原不比等と県犬養三千代の娘。16歳で首皇子(第45代・聖武天皇)の妃になる。729年、長屋王の変を経て、後(しりへ)の政を行う。父より財、邸宅を継ぎ、皇后宮職、施薬院,悲田院を置き、国分寺、国分尼寺、東大寺の創建を天皇に勧め実現させた。749年、娘・阿倍内親王(孝謙)の即位に伴い皇太后になり、皇后宮職を拡充、紫微中台を設置し、甥・藤原仲麻呂を紫微中台長官に任じて国政を掌握した。754年、大仏殿前で唐僧鑑真より受戒、758年、聖武天皇没後、遺愛の品を東大寺大仏に献じて正倉院宝物となる。
◆三年坂 平安時代、808年以前、清水寺の創建前に、仁王門前に泰産寺(たいさんじ)という寺があった。奈良時代、第45代・聖武天皇光明皇后(701-760)は女帝の第46代・第48代・孝謙天皇(718-770)を産んだ際に、天照大神により授かった一寸八分の子安観音を子安塔に安置した。以来、産婦は安産祈願に参詣した。産寧坂の名の由来は、子安信仰に関わりがあるともいう。お産安泰の「子安さん」信仰があり、産寧(お産を安寧にする意)の語源ともいう。
 三年坂は、平安時代、大同3年(808年)に坂が開かれたため三年坂と名づけられたともいう。 
 三年坂で転ぶと3年以内に死ぬという伝承があった。坂の途中に腰下げ用の小さな瓢箪を売る家があった。この瓢箪を腰に下げていると、転んだ際に魂が中に入り死を免れるとされていた。
 中世(鎌倉時代-室町時代)には、付近の清水ノ岡は「三本卒塔婆」と呼ばれた。鳥辺野にあり、経書堂、姥堂、大日堂(真福寺)などか建ち並んでいたことに因む。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の頃、五条東洞院の足軽が、仲間と清水寺参詣した。三本卒塔婆に差し掛かり、畠山の者多数の待ち伏せにより殺害された。中陰の日、遺族のもとを隣人が悔やみに訪れた。隣人は善光寺参りの道中で、殺されたはずの二人に遭い話し合ったという。その時、足軽の着ていた和服の十徳の袖の切れ端をもらったという。差し出された切れ端は、殺された日に来ていたものに合致した。
◆京焼 京焼・清水焼は、17世紀(1601-1700)中頃に陶工・野々村清兵衛(仁清)が、産寧坂で窯をつくったのが始まりという。
◆明保野亭 「明保野(あけぼの)亭」は三年坂にある。江戸時代末期には料理旅館であり、坂本龍馬(1836-1867)が常宿としていたという。中岡慎太郎(1838-1867)、長州藩士も出入りした。龍馬は二階から階下を見張ったともいう。司馬遼太郎の小説『龍馬がゆく』中では、お田鶴との密会に使われた宿として登場する。新撰組の武田観柳斎も出入りしていた。ただ、誤りとされている。
 1864年6月10日(旧)、明保野亭に、長州の過激な志士がいるということで、新撰組の原田左之助ら10人、会津藩士ら7人が踏み込んだ。土佐藩士・麻田時太郎が負傷する。事実は人違いであり、その責任を取り麻田自身と会津藩士1人が切腹して果てた。
◆子安物語 平安時代、1165年頃、三十三間堂近くに住む信心深い老尼が、閻魔王のお告げにより男女の双子を産んだという。だが、双子は脇下でつながり、魔の化身と怖れられた。双子は三条河原で処刑にされる寸前に、清水観音の化身・力者により助けられる。後に、二人は14歳で夫婦になり、老いて兄は清水本地・愛染明王、妹は子安堂の本地・地蔵菩薩になったという。(『子安物語』)
 江戸時代、大枝には地蔵由来として、同様の話『大江坂子易物語』がある。
◆文学 伊集院静『三年坂』には、三年坂の竹細工屋が登場する。宮本甚は、亡くなった母が生前に、竹細工屋で買った物をそのまま取りに行っていないという話を思い出す。甚がその店を訪ねると、母が買った花籠が保管されていた。老店主の話により、父と母の遠い記憶が蘇る。
◆映画 現代劇映画「古都憂愁 姉いもうと」(監督・三隅研次、1967年、大映)の撮影が行われた。
◆景観 周辺は、1976年に伝統的建造物群保存地区に指定されている。石段、石畳の道とともに、むしこ造り町家、本2階建町家などが軒を連ねている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の地名検証 2』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『新選組事典』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都大事典』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京の怪談と七不思議』


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