知恩院墓地(千姫・尊勝女王・吉子内親王・尊信女王) (京都市東山区)  
Chion-in Cemetery
知恩院墓地 知恩院墓地
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千姫の墓


千姫の墓


千姫の墓


千姫の墓、三つ葉葵紋。


吉子内親王の墓


吉子内親王の墓


尊勝女王の墓


尊勝女王の墓


尊勝女王の墓


尊勝女王の墓


尊信女王の墓


尊信女王の墓、「東山天皇皇孫女尊信女王墓」


尊信女王の墓
 知恩院墓地には、江戸時代の4人の女性千姫・尊勝女王・吉子内親王・尊信女王などが眠っている。
◆歴史年表 江戸時代、1666年、千姫が亡くなる。
 1703年、尊勝女王が亡くなった。
 1758年、浄林院吉子内親王が亡くなる。
◆千姫 安土・桃山時代-江戸時代前期の千姫(せんひめ、1597-1666)。女性。法号は天樹院。伏見城の生まれ。父・2代将軍・徳川秀忠、母・江与の方(崇源院)(浅井長政の娘)。徳川、豊臣氏和親のため、1603年、7歳で豊臣秀頼の正室になる。1615年、大坂夏の陣で徳川勢の城攻めの際に篭城した。祖父・家康の命により助け出される。秀頼と側室の娘・奈阿姫(天秀尼、後の東慶寺住職)を助命嘆願し、その処刑から救う。だが、炎上落城により、秀頼と母・淀殿は自害した。側室との子・国松も殺害された。豊臣氏が滅びて弟・3代将軍・徳川家光の元へ戻る。1616年、本多忠政の長子・忠刻と再婚した。 忠刻の没後は落髪し天樹院と称した。竹橋御殿で余生を過ごした。70歳。
 墓は知恩院(東山区)、伝通院(東京都)にある。
◆尊勝 女王
 江戸時代前期の皇女・尊勝 女王(そんしょう-じょおう、1676-1703)。女性。幼称は貞宮(さだのみや)。第111代・後西(ごさい)天皇、母・六条局(つぼね)の第15皇女。尊杲(そんこう)女王の妹。1682年、左大臣・近衛基煕(もとひろ)の養女になる。知恩院に入り、喝食(かっしき,剃髪・得度するにはまだ至らない寺に入った子ども)になる。1684年、出家した。28歳。
 墓は知恩院(東山区)にある。
◆吉子 内親王 江戸時代中期の皇女・吉子内親王(よしこ-ないしんのう、1714-1758)。女性。幼名は八十宮(やそのみや)、法号は浄琳院宮(じょうりんいんのみや)。第112代・霊元天皇、母・右衛門佐局松室敦子の第13皇女。1714年、生後わずか1カ月で将軍・徳川家継(6歳)と婚約する。史上最年少の将軍への権威付けをするためにの降嫁だった。1716年、納采の儀を済ませる。2カ月後に家継が死去した。史上初の武家への皇女降嫁・関東下向には至らなかった。1732年、出家し、浄琳院宮といった。45歳。
 墓は知恩院(東山区)にある。
◆尊信 女王 江戸時代中期-後期の皇女・尊信女王(そんしん-じょおう、1734-1801)。女性。父・閑院宮直仁親王(第113代・東山天皇皇子)、母・八百君(近衛基煕[もとひろ])の娘)。幼称は栄宮(よしのみや)、法名は尊真。延享元年、三時智恩寺に入り得度した。関白太政大臣・近衛家久の養女になる。高貴の身でありながら「仏子は難苦をいとうべからず」と京都の市中で托鉢した。68歳。
 墓は知恩院(東山区)にある。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 知恩院墓地(千姫・尊勝女王・吉子内親王・尊信女王) 〒605-0062 京都市東山区粟田口三条坊町1-4   
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