五辻殿址 (京都市上京区)  
Site of Izutsuji-dono Palace
五辻殿址 五辻殿址
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「五辻殿址」の石標




京都市の駒札


「五辻󠄀通り」の表示板


「五辻󠄀」の地名
 五辻通千本東入北側角に、「五辻殿址(いつつじ-どの-あと)」の石標が立っている。
 この地には、鎌倉時代に、後鳥羽上皇の院御所だった五辻殿(いつつじ-どの)があったという。
◆歴史年表 鎌倉時代前期、1203年、坊門(藤原)信清は、播磨国を賜り造進した。(『伏見宮御記録』)
 1204年、後鳥羽上皇は五辻殿に移る。(『明月記』『仲資王記』)
 1206年、慈円は御所で薬師法を修している。(『門葉記』)。その後の五辻殿についての詳細不明。
 近代、1916年、9月、石標は京都市教育会により、当初、五辻殿推定地(五辻通浄福寺西入ル南側)に立てられた。
 現代、1999年、石標は現在地に移されている。
◆坊門信清 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・坊門信清(ぼうもん-のぶきよ、1159-1216)。藤原信清。太秦に山荘があり太秦内府(うずまさ-ないふ)と呼ばれた。坊門内府。父・坊門流藤原氏の祖・修理大夫(贈左大臣)・藤原信隆、母・大蔵卿・藤原通基(みちもと)の娘。信清は、姉・七条院が産んだ第82代・後鳥羽天皇の側近になった。1179年、正五位下、1187年、少将、のち左衛門督になる。1203年、権大納言、1211年、内大臣、正二位に進む。1215年、出家し、太秦内府と号した。58歳。
 信清は鎌倉幕府・朝廷間の交渉役を務め権勢を得た。子・忠信(1187-?)、輔平(?-?)らは後鳥羽天皇の近臣になる。娘・坊門局(西御方、?-?)は後鳥羽上皇の後宮になり、位子(?-?)は第84代・順徳天皇の後宮、西八条禅尼(1193-1274)は源実朝の室になっている。
◆後鳥羽天皇 平安時代後期-鎌倉時代中期の第82代・後鳥羽天皇(ごとば-てんのう、1180-1239)。諱は尊成(たかひら)、法名は良然、別名に顕徳院、隠岐(おきの)院。後に後鳥羽院。京都の生まれ。父・第80代・高倉天皇、母て准后七条院藤原殖子(やすこ/しょくし、坊門信隆の娘) の第4皇子。1183年、平氏は、第81代・安徳天皇(後鳥羽天皇の兄)、第2皇子・守貞(もりさだ)親王を伴い都落ちする。都には天皇不在になり、祖父・後白河法皇(第77代)の詔により、神器がないままに尊成親王が4歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)した。一時、天皇が2人存在する事態になる。1184年、即位の式を挙げた。1190年、元服する。1192年、院政を敷いた後白河法皇の没後、4歳の後鳥羽天皇の親政になる。実権は関白・九条兼実、1196年、その失脚後は源(土御門)通親が握った。(建久七年の変)。1198年、幕府の反対を押し切り、皇子・為仁親王(第83代・土御門天皇)に譲位し院政を始める。以後、第84代・順徳天皇(土御門の弟)、第85代・仲恭天皇(順徳の子)と3天皇に23年に渡り院政を敷いた。1199年、上皇により九条良経が左大臣に任命され、九条家が復帰した。1202年、通親の没後は、強権的になる。1219年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の暗殺後、幕府は後継将軍として上皇皇子を要請する。上皇は拒絶し、幕府からの政権奪取を目指し、畿内、近国の兵を集める。1221年、執権・北条義時追討の宣旨を出して挙兵し、承久の乱になる。幕府が上洛させた北条泰時らの大軍に上皇方は敗れる。鳥羽殿に幽閉され、出家し良然(金剛理とも)と称した。幕府は平氏に育てられ即位していない、兄・後高倉院に院政を執らせた。仲恭天皇は退位し、1221年、第86代・後堀河天皇(後高倉院の子)を即位させる。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を配流した。後鳥羽上皇は隠岐に流される。1235年、遷京の動きは幕府により拒否された。1239年、隠岐での18年の生活の後に同地苅田で没した。60歳。
 第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇、第85代・仲恭天皇の3天皇に院政を敷いた。西面の武士を新設する。白河に最勝四天王院を建て、水無瀬、鳥羽、宇治などに院御所を営んだ。1198年以来、熊野詣は28回に及ぶ。芸能(蹴鞠、琵琶、笛)、武技(流鏑馬、犬追物、相撲、水泳)、刀剣鍛造も行った。和歌にも長じ、1201年、和歌所を設ける。千五百番歌合は名高い。藤原定家らに『新古今和歌集』(1205)を勅撰させた。日記に『後鳥羽天皇宸記』がある。
 上皇の死の前後に、1234年、第85代・仲恭天皇、第86代・後堀川天皇、1240年、北条時房、1242年、北条泰時らが相次いで亡くなる。無念の死を遂げた上皇の怨霊による仕業と怖れられた。上皇の当初の諡号は顕徳院であり、祟りを怖れ、後鳥羽院に改められた。
 火葬塚は、島根県隠岐郡海士町にある。1658年、松江藩主・松平直政が修理した。遺骨は大原陵(左京区)に葬られる。
◆七条院 平安時代後期-鎌倉時代前期の女性・七条院(1157-1228)。名は殖子(しょくし)、法名は真如智。京都の生まれ。父・後白河院近臣・修理大夫(贈左大臣)・藤原信隆、母・藤原休子。当初、第80代・高倉天皇中宮・平徳子(建礼門院)に仕え兵衛督局といわれた。高倉天皇の典侍として、1179年、第2皇子・守貞親王(後高倉太上天皇)、1180年、尊成(たかひら)親王(第82代・後鳥羽天皇)を産んだ。1183年、後鳥羽天皇の即位により、1190年、従三位を授けられ、三宮に准じられる。院号宣下を受け七条院と称した。1205年、出家し、真如智と称した。72歳。
 国母として権勢を有した。鳥羽天皇より、水無瀬殿など多くの七条院領を譲られる。姪・西御方(坊門信清の娘)が後鳥羽との間に産んだ道助法親王を猶子として養育した。  
◆五辻殿 鎌倉時代前期、1203年に、坊門(藤原)信清(1159-1216)は播磨国を賜り、五辻殿(いつつじ-どの)を造進した。(『伏見宮御記録』)。五辻南、大宮西、櫛笥(くしげ)末に位置した。(『三長記』『中古京師内外地図』)。信清は、後鳥羽上皇(1180-1239)の生母・七条院藤原殖子(1157-1228)の弟に当る。
 1204年に、小御所が完成している。(『明月記』『仲資王記』)。7月29日に、安鎮法が修されている。(『阿婆縛抄』)。8月8日には、後鳥羽上皇は新御所の五辻殿に移った。(『百錬抄』)。1206年に、僧・慈円(1155-1225)は御所で薬師法を修している。(『門葉記』)。その後の五辻殿について詳細不明。
 なお、上皇の御所としては、五辻殿以外にも十数カ所が知られている。
◆石標 石標の位置は過去に3地点に変更されている。
 近代、1916年9月に、京都市教育会により、当初は現在地の東の五辻殿推定地(五辻通浄福寺西入南側)に立てられた。京都市立第二商業学校職員が寄付している。
 後に、現在地の南向かいの、嘉楽(からく)中学校(上京区今出川通千本東入般舟院前町148)に移される。
 その後、1999年に現在地に再度移されている。
◆五辻通 上京区の五辻通(いつつじ-とおり)は、平安京北郊外の都市化により形成された。東西路であり、東は大宮通、西は御前通までになる。
 周辺には複数の殿舎があった。平安時代後期の公卿・藤原成親(1138-1177)の「五辻第」、平安時代後期-鎌倉時代前期の第74代・鳥羽天皇第7皇女・賀茂社斎宮・頌子(しょうし)内親王(1145-1208) の「五辻斎院」、平安時代後期-鎌倉時代中期の後鳥羽上皇(第82代、1180-1239)の「五辻殿」などが営まれた。
 中世(鎌倉時代-室町時代)には、親王家の「五辻宮(いつつじ-の-みや)」(上京区西五辻東町)が、五辻殿の同地にあった。両者の関連については不明。(『中古京師内外地図』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)には絹職屋、糸商売により栄えた。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都市の地名』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 五辻殿址 〒602-8478 京都市上京区西五辻東町,五辻通千本東入ル北側
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