金座遺址 (京都市中京区)
Ruins of Kinza(Edo-period gold mint)
金座遺址 金座遺址
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「此附近 徳川時代金座遺址」の石標、両替町通。

 京都国際マンガミュージアムの西側、両替町通り東側に、「此附近 徳川時代 金座遺址(このふきん-とくがわじだい-きんざ-いせき)」の石標が立つ。
 安土・桃山時代-江戸時代に、この付近には徳川幕府の金貨鋳造所が置かれていた。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1588年、豊臣秀吉の命により、後藤家一門が「天正大判」の鋳造を行う。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、堺・大坂・伏見より、金屋・金吹きを両替町に集めた。
 1685年、金座「後藤庄三郎」の名がある。(『京羽二重』)
 江戸時代、1800年、寛政の改革後、京都での小判の鋳造は行われなかった。御所御用箔・京坂金職の取締のみを行う。
 近代、1868年、京都の金座は廃止された。
 1917年、1月、京都市教育会により、石標が立てられる。
◆初代・後藤庄三郎 安土・桃山時代-江戸時代前期の御金改役(おかねあらためやく)・初代・後藤庄三郎(ごとう-しょうざぶろう、?-1625)。本性は橋本/山崎、名は光次(みつつぐ)。遠江(静岡県)の生まれ。天正大判を鋳造した後藤四郎兵衛徳乗の門人になる。1593年、徳川家康の要請で、金銀御用に後藤家名代の弟・七良兵衛が任じられた。七良兵衛が病いのため、庄三郎が代わって名代を務めた。後藤家の養子になり、庄三郎光次と名乗る。1595年/1596年、日本初の鋳造小判の武蔵墨書小判を江戸で鋳鋳した。関八州の領国向け通用のためだった。小額金貨の短冊型一分金の試作、小判も極印打ちに改める。1600年、量目・品位が一定した慶長小判・一分判を鋳造・発行させる。1601年、末吉勘兵衛と銀座を設立し、徳川の金銀貨を全国貨幣として流通させる。1615年、大坂夏の陣後、眼病になり隠居し庄右衛門と称した。著『駿府記』。 55歳。
 江戸幕府の金座主宰者であり、金貨などを鑑査する御金改役になり金座を統轄した。家康の厚い信任を得て、側近として幕府財政に関与する。朱印状の発給、外交交渉に関わる。金座主宰者はその後も庄三郎家が継承した。幕末まで金貨への極印は、初代光次名と打たれた。
◆金座 「金座(きんざ)」は、両替町(烏丸通西、二条通-三条通間)にあった。諸藩の職制の一つである勘定奉行の支配下に置かれた。金貨鋳造、鑑定、引替、地金類の買収、鑑札などを行う。当初は、江戸、駿河、佐渡、京都に置かれる。
 京都の金座は、安土・桃山時代、1588年に、豊臣秀吉の命により、後藤家一門が「天正大判(大判鋳造)」の鋳造を行ったことに始まる。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)に、堺・大坂・伏見より、金屋・金吹きを両替町に集める。幕府御用達商人筆頭・後藤庄三郎は、金座の御用改係を務め役所が置かれた。後藤氏は小判の検定、極印を打った。江戸時代、1685年に、金座(姉小路車屋町)に「後藤庄三郎」の名がある。(『京羽二重』)
 江戸時代中期以降、1800年の寛政の改革後に、京都での小判の鋳造は行われず江戸金座に移る。京都では、御所御用箔・京坂金職の取締のみを行った。
 近代、1868年に京都の金座は廃止された。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」

 
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map 金座遺址 〒604-0846 京都市中京区金吹町,両替町通御池上ル東側
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