銭座場跡 (京都市下京区)  
Ruins of Zenizaba(Mint bureau for copper coins place)
銭座場跡 銭座場跡
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「銭座場跡」の石標


【参照】柳原銀行記念資料館
 柳原銀行記念資料館の敷地一角に、「銭座場跡(ぜにざば-あと)」の小さな石標が立てられている。
 江戸時代の銅銭鋳造所の歴史を記念している。
◆歴史年表 江戸時代前期、七条通高瀬川沿いの妙法院宮領は、荒地と化していた。
 1611年-1614年頃、角倉了以は鴨川の氾濫原西限に沿い高瀬川を開削している。
 1698年、京糸割符(きょう-いとわっぷ)仲間は、奉行所に銭鋳造の許可を願い出る。旧妙法院宮領の土地に許しが出る。銭座場が設置された。
 1700年、2月13日より、銭座場で当初は「寛永通宝(荻原銭)」の鋳造が始まる。
 1705年、敷地が拡張される。
 1708年、2月より、「宝永通宝(大銭)」の鋳造に変更になる。
 1709年/1708年、1月23日、宝永通宝は不評のため鋳造停止になる。跡地は放置された。
 1731年、11月、跡地が開発され、銭座跡村(銭座村)になった。
 現代、1994年、 6月、崇仁地区の文化遺産を守る会により、石標が立てられた。
 2006年、八条通拡幅工事(東洞院通-河原町通間)に先立ち、京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査が行われる。銭座場に関わる跡炉壁、坩堝、取瓶、砥石、銅滓などが出土した。
◆銭座場 江戸時代、1698年に京糸割符仲間は、奉行所に銭鋳造の許可を願い出た。現在地のやや南、東之町、西之町辺り、七条通高瀬川沿いの妙法院宮領に銭座場が設置された。6400坪(2万1157㎡)の敷地があり、妙法院宮領については「京師大絵図」(1701)にも描かれている。江戸時代前期に、当地は荒廃していた。1611年-1614年頃、角倉了以は鴨川の氾濫原西限に沿って、高瀬川を開削している。
 京都の銭座場は、京都糸割符年寄の長崎屋忠七ら5人の請負により事業を開始した。1700年2月13日より、作業小屋2軒を建てた。当初は「寛永通宝(荻原銭[おぎわらせん])」の鋳造を始めた。小屋は次第に建て増しされ31軒になる。1705年に、さらに480坪(1587㎡)の敷地の払い受けにより敷地が拡張される。
 1707年に幕府は、寛永通宝から「宝永通宝(宝永通寳銅十文銭、大銭[おおぜに])」の鋳造に変更した。1708年2月より鋳造が行れた。宝永通宝は10万貫が鋳造されている。1709年1月23日/1708年に、宝永通宝の鋳銭事業は、不評のために生産停止になった。鋳造期間の9年間に、銭座場で総額173万6684貫(1貫1000文)の銭を鋳造している。
 銭座場跡地は銅気が多く含まれ、耕作地に向かず土地は放置されたままだった。
 1731年11月に、天部村(あまべむら)年寄・源左衛門(げんざえもん)、六条村年寄・与三兵衛(よさべえ)の両人は、銭座場跡に新しい村を開発することを願い出る。2村に跡地が下げ渡され、以来、「銭座跡村(ぜにざあとむら、銭座村)」と呼ばれた。以後、宅地として開発され、現在の崇仁学区南部の始まりになる。
◆糸割符制度 「糸割符(いとわっぷ)制度」は、正式には「白糸割符商法」という。白糸とは上質の生糸を意味した。江戸時代に幕府から特許を得た商人により組織され、中国産生糸の一括輸入を行っていた。
 16世紀後半に、日本は中国産生糸をポルトガル商人を経て輸入していた。17世紀には、イギリス、オランダ、スペインも日本との交易を始めている。日本人商人も東南アジア各地との貿易を始めた。
 江戸時代、1604年に幕府は、ポルトガルとの交易について、京都、堺、長崎などの大商人を年寄に任命し、「仲間」を結成させる。ポルトガル船が入港すると、生糸を一括購入制により、仲間に購入価格決定させた。三都間で一定比率により分配し国内販売させた。その後、1631年に、江戸、大坂の商人が加わり、「五ヶ所商人」と呼ばれた。後に、イギリス、スペインの撤退後、1635年には、中国、オランダにも新たに適用される。1641年に、生糸輸入価格はこの仲間によって全て統制されていた。
 後に、価格をめぐる利害対立が起こる。幕府は1655 年に糸割符仲間を解散させる。1685年に輸入総量の枠を定めて復活したものの、国産生糸の増加により制度も形骸化し、次第に衰退した。その後、自由貿易になり主導権は外国側に移った。
◆発掘調査 2006年に、八条通拡幅工事(東洞院通-河原町通間)に先立ち、発掘調査が行われた。炉跡などの遺構は見つからなかった。大量の炉壁、坩堝(るつぼ)、取瓶(とりべ)、砥石、銅滓(どうさい)などが出土した。これらは、江戸時代後期-明治期の整備の際に、旧銭座場で使用されていたものを敷地外に廃棄した跡と見られている。
 ◈平研ぎ用砥石が出土した。 銭の仕上げ工程の研磨作業で、銭を一列に並べて銭面を研磨した際に用いた。浅い線状の使用痕があった。一辺6.0㎝前後の方形。
 丸目砥石は、銭の方孔に串を通して耳(銭の周縁)を研いだ。一辺9.0㎝-13.5㎝の方形、断面半円形(幅2.5㎝-3.0㎝、深さ1.0㎝-1.5㎝)。
 いずれも、使用痕は砥石の対角線を結ぶ方向、直交する方向にあり、片面のみ、両面を使用したもの、表面に緑青が付着したものもあった。材質は砂岩が主であり、273点が出土し、平研ぎ用砥石が42点、丸目砥石が192点、不明なものが39点だった。
 ◈銭甕(半胴甕)は、美濃・瀬戸産陶器の筒形の甕であり、底部は糸切りの平底で、底部を除く全面に厚さ1mm前後の鉄釉・柿釉が施されていた。
 坩堝(るつぼ、金属などを入れ、高温にして溶かすのに用いた容器)か、取瓶(とりべ、炉からでた溶融金属を受け、運搬、鋳型に注入する際に用いた容器)として利用されていたと見られている。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「説明板-崇仁地区の文化遺産を守る会」、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「銭座跡村-柳原銀行記念資料館」、「銭座-京都市埋蔵文化財研究所」、ウェブサイト「コトバンク」


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