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桜田儀兵衛翁の顕彰碑 (京都市下京区) Honoring monument of Sakurada,Gihee |
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桜田儀兵衛翁の顕彰碑 | 桜田儀兵衛翁の顕彰碑 |
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![]() 顕彰碑 ![]() 石標 ![]() 石標 ![]() 湧水 |
柳原銀行記念資料館の脇に、桜田儀兵衛翁の顕彰碑(さくらだ-ぎへえ-おう-の-けんしょうひ)、巨大な石標が立てられている。 江戸時代後期-近代の名望家・政治家・桜田儀兵衛の業績を称えている。 ◆歴史年表 近代、1893年、桜田儀兵衛が亡くなる。 1895年、3月、町民により顕彰碑・石標が立てられた。 ◆桜田儀兵衛 江戸時代後期-近代の名望家・政治家・桜田儀兵衛(さくらだ-ぎへえ、1832-1893)。山城国紀伊郡柳原庄銭座跡村の生まれ。1871年、「解放令」が発布され、銭座跡村北組5人頭筆頭になる。1873年、柳原庄(現・崇仁学区)の戸長になった。1876年/1877年、柳原小学校(現・崇仁小学校)建設のために、土地を提供し費用を立て替える。学資の出せない者に、衣服・道具を給付した。1886年、京都でコレラが大流行した際に、大掃除を実行し防疫活動に努める。このため、他地区に比べ患者数はわずかだった。1889年、柳原庄は紀伊郡柳原町になる。町長に選出された。町予算が不足することを案じ、別に歳入を見つけた。貧民授産所を設立し、衛生懇談会を開く。1893年、病気のために町長を辞任し、同年、死去する。62歳。 火災・凶作による貧困者に対し、家宝を売り倉庫を開放し救助に当たる。道路・溝を修理・新設し、町内の水捌けを改良した。鉄道敷地立ち退き交渉、戸長役場の確保、皮革工場へのドイツ人技師の招き入れなどを行う。 ◆碑・石標 ◈ 顕彰碑は、近代、1895年3月に立てられる。撰・書は交友が深かった紀伊郡長・荒木公木による。 ◈ 石標も、1895年3月に立てられた。書は、政治家・公爵・近衛篤麻呂(1863- 1904)による。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献 「説明文-崇陣地区の文化遺産を守る会」、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「柳原銀行記念資料館」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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