旧本野清吾自邸 (京都市北区)  
Former Motono,Seigo residence
旧本野清吾自邸 旧本野清吾自邸
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東側


東側


東側


東側、玄関


東側、玄関脇の柱


東側、玄関


東側、鎮ブロック


東側


東側、2階、庇

 立命館大学衣笠キャンパスの東に、旧本野清吾自邸(きゅう-もとの-せいご-じてい)がある。清吾自身が設計した。
 外観は無装飾・簡素の意匠であり早期モダニズムを具現している。建築家・中村鎖が発明した当時最先端の「鎖(ちん)ブロック」を剝き出して見せている。
◆歴史年表 近代、1924年、12月、本野清吾自邸は竣工した。
 現代、1985年頃、屋根の防水処理が行われる。
 1989年頃、風呂場の修理が行われた。
 2003年、DOCOMOMO JAPANの「 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定された。
 2008年-2012年、修復工事が行われた。
 2020年、京都市の「京都を彩る建物や庭園」に認定される。
◆本野精吾 近代の建築家・本野精吾(もとの-せいご、1882-1944)。東京生まれ。読売新聞社創業者・2代目社長・本野盛亨(もりみち)の5男。暁星中学校、第一高等学校を経て、1903年、東京帝国大学工科大学建築学科に入学した。1906年、大学卒業後、三菱合資会社地所部(現・三菱地所)の技師になる。三菱12号館の設計に関わった。1908年-1943年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授・武田五一の招きにより、同校図案科教授になる。35年にわたり工芸図案教育に携わった。1909年-1911年、ヨーロッパに留学し、ドイツ人建築家・ベーレンス(1868-1940,Peter Behrens)設計のAEGタービン工場(1909)などを視察した。モダニズム建築に影響を受けて帰国する。1914年、西陣織物館(現・京都市考古資料館)を初設計する。その後、ドイツに留学した。1918年、京都高等工芸学校の学科長になる。1927年、京都で結成された「日本インターナショナル建築会」(同人は上野伊三郎、石本喜久治、中尾保、伊藤正文、新名種夫)に参加する。関西の国際様式の中心人物になる。武田五一はその作風を批判した。1937年、プレスアルト(PRESARTO)研究会(エスペラント語で印刷美術・印刷工芸)が設立され、中心人物として広告デザイン、印刷物にも関わる。1944年、従三位勲二等を叙された。61歳。
 機能性・合理主義を標榜し、日本のモダニズム建築の先駆として知られた。新構造体(鉄骨・鉄筋コンクリート)を使用し、意匠は抽象的な面・線を追究した。川崎造船デザイン顧問になり、船室・船体デザインに関わる。新劇運動に関わり、舞台設計・舞台衣装デザインも手掛けた。染物制作者の「新美会」(1924年設立)顧問も務めた。食器、工芸、家具、グラフィックデザインも手掛ける。南画・洋画、彫塑も嗜み、京都での西洋音楽普及、エスペランティストとしても知られる。ローマ字普及にも関わる。写真、レコード収集、登山、社交ダンスなどの趣味があった。晩年、真宗大谷派の僧侶・暁烏敏(あけがらす-はや、1877-1954)に傾倒した。
 主な作品に、最も早い段階のモダニズム建築である西陣織物館(現・京都市考古資料館、1914) 、京都高等工芸学校自習室(1924)、自邸(1924)、旧鶴巻邸(現・栗原眞純邸 、1929)、旧京都高等工芸学校本館(現・京都工芸繊維大学3号館、1930)、フルーツパーラー八百常(1930)、フルーツパーラ八百文(1931)、乾構造小住宅(1935)、大橋邸(1937)、川北化学企業研究所(1938)、橘丸(1935)などの客船の基本デザイン・船内装飾も手掛けた。
◆中村鎮 近代の建築技師・建築家・中村鎮(なかむら -ちん/まもる、1890-1933)。福岡県生まれ。1908年、私立中学卒業後、台湾総督府土木局に入る。台北水道水源地で鉄筋コンクリート造倉庫などの設計、現場管理助手を務める。その後、依願退職し、早稲田大学理工科建築科に入学し佐藤功一に師事した。『建築ト装飾』に評論を発表した。1913年、同誌の編集主任を務める。1914年、大学を卒業し、1915年、陸軍省経理部技手になる。1917年、病気のために退職する。その後、住宅の設計施工会社「あめりか屋」の技手などを務めた。1918年、酒井祐之助の「東洋コンクリート工業」の技師になる。1919年、日本セメント工業技師長に転じた。この頃、「中村式鉄筋コンクリート・ブロック構造(中村式鉄筋コンクリート構造/NRCブロック/鎮ブロック)」を発明する。1920年、辞職し、日比谷に「建築相談所」を創立した。1921年、ブロックを用いた建築の応用・設計のために、「中村鎮建築研究所」を設立した。1926年、「都市美協会」を設立する。1928年、早稲田高等工学校で建築歴史学の講師になる。1932年から、「新軽量構造」による低コスト住宅の間発に取りくむ。 1933年、自宅(杉並区荻窪)を新築し移住する。著『中村鎮遺稿』。42歳。
 建築評論家として活躍した。アール・ヌーボーなどの芸術的価値を擁護し、建築家・野田俊彦の「建築非芸術論」を批判した。後に表現主義から合理的意匠に傾斜する。
 主に作品は、東京・錦輝館(1922)、早稲田大学出版部図書倉庫(1924)、大阪安治川第一弥生館(1925)、日本基督教団弓町本郷教会(1926)、大阪島之内教会堂(1928)、日本基督教団福岡警固教会(1929)、日本基督教団天満教会(1930)、群馬・橋林寺納骨堂・観音堂(1932)、沖縄県糸満小学校(1932)など。
 なお、本野自邸(北区)の南隣に、「中村建築研究所京都出張所」が建てられていた。
◆建築 ◈ 「本野清吾自邸」は、近代、1924年12月に竣工した。設計は本野本人による。1985年頃に、屋根防水処理が行われる。1989年頃に、風呂場の修理が行われた。2008年-2012年に修復工事が行われる。2003年に、「 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定された。2020年に、京都市の「京都を彩る建物や庭園」に認定されている。
 東面している。主屋は、「中村式鉄筋コンクリート・ブロック構造(中村式鉄筋コンクリート構造/NRCブロック/鎮ブロック)」を採用している。竣工前年の1923年9月に関東大震災が起こり、清吾は鎮ブロックは耐震・耐火性に優れていることを確信し当時の最先端工法を採用したという。近代建築史上、当時の最新技術を応用した住宅初例になる。鎮ブロックを用いた現存建物は数少ない。本野清吾自邸は小規模、最小限の住宅建築であり、工法の簡便性、合理性も追究した。1927年に清吾らが京都で結成した「日本インターナショナル建築会」の原点作品になる。
 主屋の外観は、モダニズムの影響が見られる。単純な箱型の建物であり、装飾を排し、抽象、非線対称な構成になっている。ブロックを剥き出しにした。この工法は、ブロックを開発した中村鎮も採用していない。本来はブロックの上はモルタル塗で仕上げにした。あえて構造体をそのまま見せた日本初の住宅になる。因みに、1932年にヨーロッパで無装飾のコンクリート剥き出し建築のスイス学生会館(設計・ル・コルジュビエ)が竣工している。目地面は面一(つらいち、ブロックと段差のない)仕上げにした。東側正面には、横方向の長手積のほか、縦方向などの積み方も交えている。
 玄関ポーチの柱、門には煉瓦も使われている。「金森式鉄筋煉瓦」と呼ばれ、煉瓦は鉄筋を通すために中空になっている。河川技術者・内務官僚・金森誠之(かなもり-しげゆき、1892-1959)が発明した。建物最上部の軒、主要窓の上部に大きな庇が付けられ、雨と日光に対処している。これらは、本野らの「日本インターナショナル建築会」が提唱した「ローカリティ(風土の気候、地域性)」の理念に立脚している。日本独特の風土下でのモダニズムを試行した。屋根は陸屋根になっている。
 内部は漆喰塗になる。当初はブロックの隙間を効率的に用い、暖炉の熱を屋内循環させていたという。天井高は低く押さえられている。1階居間は広くとられ、食堂と連続した一続きの部屋(リビングダイニング)になる。生活動線を圧縮し、機能的効率的な間取りが工夫されている。暖炉、照明器具には、表現派的な意匠が見られる。階段は建物の中央にあり、階段室天井にはトップライトが開く。2階に寝室などがあり天井高は低く、窓開口が下げられ圧迫感を抑えている。
 施工は岡田工務店(岡田精一郎)による。鉄筋コンクリートブロック造2階建、敷地面積500㎡、建築面積100㎡、延床面積180㎡。
 ◈2008年-2012年に修復されている。修復設計は円満字建築事務所、施工は高橋工務店による。
 壁には、プラスター(石膏・石灰)塗りの刷毛目がついており、そのまま保存され、刷毛引きにより復元された。修復工事中に、床板の下に布目釉薬タイル(泰平タイル製)が現れたため再現された。1階天井は、本野精吾の3男・染色家・本野東一が蝋結(ろうけつ)染めの仕事場として使用し、白色から飴色に変色していた。建物の歴史として、復元はされずそのまま残された。ボイラー室の煤は復元された。
 ◈ 「倉庫」も鎮ブロック造になる。
 ◈ 本野邸南隣に、1924年の同時期に中村鎮の「中村建築研究所京都出張所」が建てられていた。本野清吾自邸に類似していた。
 京都高等工芸学校教授の「古城鴻一邸」も建てられた。いずれも鎮ブロック造であり、設計は中村鎮の可能性があるといわれている。
◆家具 本野自邸には、本人が設計した家具などが残されている。戸棚、食器棚、サイドテーブル、脇棚、椅子などもある。
◆鎮ブロック 「中村式鉄筋コンクリート・ブロック構造(中村式鉄筋コンクリート構造/NRCブロック/鎮ブロック)」は、中村が1919年頃に発明した。1921年に「縦横複筋補強コンクリート、ブロック(鎮ブロック)」名で専売特許を取得している。1921年-1933年に鎮ブロックは14都道県(東京、群馬、京都、大阪、兵庫、福岡、沖縄など)の119棟の建物に採用している。
 採用例の最初は、1921年に竣工した報知新聞社ステロー工場・写真室になる。その後、函館市内の映画館「錦輝館」で利用された。1924年に京都・本野精吾邸、1928年の京都・鶴巻邸(現・栗原眞純邸)、1932年に前橋・橋林寺開山堂などにも採用された。ほかに、中村の恩師・早稲田大学教授・佐藤功一邸、本郷基督教会聖堂にも用いられたという。
 基本の鎮ブロックは、単一形のL型コンクリートブロックになる。工場で生産され、事前に成形された無筋プレキャスト成型になる。特徴として、長辺内側に2条のリブ(突起部)を持つ。長辺353㎜、短辺173㎜、高さ173㎜、厚さ30㎜、重さ6.5㎏ある。鎮ブロックの圧縮強度は、戦前コンクリートに対比し3倍近い。
 鎮ブロック造の工法は、偶角L字型・T字型部の鉄筋を先に組み、ブロックを積み上げ、内部にコンクリ−ト打設(だせつ、基礎になる生コンクリートを流し込む)した。仮枠も兼ねたブロックを組み合わせることで、中空の壁体を作った。この中空部に鉄筋を通し、コンクリートを流し込んで一体化させた。スラブ(床)も、ブロックを箱形に組合せ一列に並べて筒状の空洞を造った。このボイドスラブ(中空の床)は自重軽減も可能にした。
 中村は、鎮ブロックを鉄筋コンクリート構造を超える材と捉えていた。工法上の利点として、外壁の防水施工不要、コンクリート打設での硬化不良防止のための水湿しの不用、モルタル塗りのドライアウト(硬化不良)の心配もなかった。また、柱の大きさ、断面形状などを自由に形成できる利点があった。ブロックは軽く片手で持てる。型枠不要、施工の迅速性、材料軽減、壁体材料軽減による基礎軽減などは経費削減にもなる。ブロック内部に設備配管・配線が行える。空気層が生まれ保温・防湿・防音効果がある。部分的に強度を増し、耐震・耐火性向上、外観の優良、梁・柱が突出しないことなども挙げられた。
 その後、より耐震性、高層化の実現が重視され、鎮ブロックは広く普及することはなかった。鉄筋コンクリート構造に移行していった。
◆日本インターナショナル建築会 近代、1927年7月に、京都の上野伊三郎(1892-1972)の建築事務所で「日本インターナショナル建築会」が結成された。
 同人は会長格の本野を理論的支柱として、代表の上野のほか、石本喜久治(1894-1963)、中尾保(1894-1963)、伊藤正文(1896-1960)、新名種夫(1902-1952)の6人が設立者として参加する。本野が設立時の宣言、綱領の策定を取りまとめ、関西の国際様式の中心人物に立つ。
 その後、ドイツ・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883 -1969)、ドイツ・ベーレンス(Peter Behrens,1868-1940)、ドイツ・タウト(Bruno Julius Florian Taut,1880-1938)、オランダ・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld, 1888-1964)、オーストリア・ホフマン(Josef Franz Maria Hoffmann,1870-1956)ら10人の外国人も参加し、総勢で180人以上の会員が集った。
 会の主張は、ローカリティ(風土の気候、地域性)に立脚し、インターナショナルな建築の有り様を目指していた。機関誌として『デザイン』『インターナショナル建築』をほぼ毎月発行した。1932年にニューヨーク近代美術館で「インターナショナル・スタイル展」が開催され、上野が出展している。1933年には上野が招聘の責任者として、タウトの来日を実現させている。タウトは、下村正太郎(1883-1944)邸に宿泊し、桂離宮を訪問している。なお、同年に建築会は活動停止した。
 建築家・武田五一は、建築会の作風を度々批判している。


*内部は通常非公開
原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『関西の近代建築』、『関西のモダニズム建築20選』、『関西のモダニズム建築』、『京都市の近代化遺産 近代建築編』、『建築家 本野精吾展』、『京都市考古資料館と建築家 本野精吾』、『京都のモダニズム建築』、『もうひとつの京都-モダニズム建築から見えてくるもの』、ウェブサイト「中村鎭による「中村式鉄筋コンクリート」の考案とその実際例」、ウェブサイト「材料からみた近代日本建築史 その9 コンクリートブロック-建設資材データベース」、ウェブサイト「中村式鉄筋コンクリート研究会」、 ウェブサイト「円満字建築事務所」、ウェブサイト「水間徹雄・建築巡礼の旅」、ウェブサイト「桂離宮とその庭園: 1930年代における日本建築の近代性の発見」、ウェブサイト「コトバンク」


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