本居宣長先生修学之地 (京都市下京区)  
Place of study of Motoori, Norinaga
本居宣長先生修学之地 本居宣長先生修学之地
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「本居宣長先生修学之地」の石標




碑文の東側
 綾小路通室町西入ル南側に「本居宣長先生修学之地(もとおり-のりなが-せんせい-しゅうがく-の-ち)」の石標が立てられている。
 本居宣長は、江戸時代中期の1752年-1757年に京都に遊学している。この地には、江戸時代中期の儒医・堀景山、近くに医師・武川幸順の塾があり宣長が学んだ。
◆歴史年表 
江戸時代中期、1752年、3月、堀景山(現在地、室町四条南、綾小路通室町西入ル南側)は宣長を数年間住居させ、漢学、儒学を学ばせた。
 1754年、10月、宣長は近隣の武川幸順(室町通綾小路北上ル)に入門し、小児科医学を学ぶ。
 現代、1951年、本居宣長翁遺蹟顕彰会が石標を立てた。
◆本居宣長
 江戸時代中期-後期の国学者・本居宣長(もとおり-のりなが、1730-1801)。富之助、号は舜庵(春庵)・鈴屋(すずのや)など。伊勢国松坂に生まれた。父は木綿商・小津三四右衛門定利、母は勝。1737年、8歳で西村三郎兵衛により手習いを始めた。1740年、父・定利が没した。1744年、元服する。1748年、伊勢の今井田家の養子になる。1752年、母・勝の勧めで上京する。儒医・堀景山(綾小路通室町西入ル)に入門した。寄宿し、儒学、医学を学ぶ。姓を祖先の姓・本居に改める。荻生徂徠、契沖(けいちゅう)の古典研究も学ぶ。1753年、医師・堀元厚に入門し医学を学ぶ。1754年、典薬医・武川幸順(室町四条南)に入門し、小児科医学を学んだ。1755年、名を宣長、号を春庵と名乗り医者になる。1757年、松坂に戻り、小児科医業を開業する。1758年、嶺松院歌会に初出詠した。『源氏物語』の講釈を開始し、「もののあはれ」を説く。以来、松坂で古典講釈が始まり40年続いた。1760年、村田みかと結婚、その後、離婚した。1762年、草深たみと再婚した。1763年、 松坂で賀茂真淵と初対面する。以後、古学を発展させ『古事記伝』(1763-1798)44巻の著述を始める。第1巻の「直毘霊(なおびのみたま)」で漢意を批判する。1764年、『日本書紀』の講釈を開始した。真淵に入門し古道研究をする。1774年、『史記』の講釈を開始した。著『玉勝間』など多数ある。
 『古事記』、『源氏物語』など古典文学の注釈、係り結びに法則があることを発見した漢字音の音韻研究、「てにをは」・用言活用などの国語学研究、「もののあはれ」を中心にした文学論、上代の生活・精神を理想にした古道説などを究めた。復古思想を説き儒教を排した国学の完成者であり、国学四大人(ほかに、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤 )の一人に数えられた。72歳。
 鈴屋門流といわれる門人は488人という。実子・本居春庭(はるにわ)、養子・本居大平(おおひら)、田中道麿、服部中庸(なかつね)、横井千秋、石塚竜麿(たつまろ)、鈴木朖(あきら)らがいる。平田篤胤は門人を自称した。
◆堀景山 江戸時代中期の儒学者・儒医・堀景山(ほり-けいざん、1688-1758)。名は正超、字は彦昭、通称は禎助、号は景山など。京都に生まれ。儒学者・医師・玄達(蘭阜)の子。代々、芸州(広島)浅野家の儒官であり、綾小路室町西に住む。藤原惺窩の高弟・堀杏庵(きょうあん)の曾孫、従弟に南湖(正修)。父に朱子学、医学を学ぶ。1719年、芸州(広島)藩浅野吉長の側儒になり、京都に常住し、禄200石を得て京都・広島間を往還して進講した。1752年より、上洛した本居宣長の最初の師として数年間自宅に寄寓させた。樋口宗武とともに契沖の著書刊行に尽力した。契沖の『万葉代匠記』、古学派の荻生徂徠(おぎゅう-そらい)と親交し、古文辞(こぶんじ)などを教えた。日本古典にも造詣深く、宣長の『日本書紀』は景山から伝与された。宣長を国学に導く。京都で没した。著『不尽言』。70歳。
 南禅寺・帰雲院(左京区)の堀家墓地に葬られた。
◆武川幸順 江戸時代中期の医師・武川幸順(たけかわ -こうじゅん、1725-1780)。字は建徳(けんとく)、号は南山。京都の生まれ。父は小児科医・幸哲(元順)。小児科の名医として知られる。堀景山に入門した。1754年、宣長は武川幸順(室町通綾小路北上ル)に入門し、堀景山宅より移る。京都遊学中の本居宣長(もとおり-のりなが)に医学を教えた。明和年間(1764-1772)、英仁親王(第118代・後桃園天皇)の御殿医になり、法橋、後に法眼になった。56歳。
 宣長が『馭戎慨言』を執筆した際に、摂政・九条尚実に献上を試み、半ばで死去した。その子が遺志を継いだ。
 墓は勝円寺(下京区)にある。
◆碑文 碑文の東側は「堀景山宅 綾小路通室町西入南側/武川幸順宅 室町通綾小路北上/昭和二十六年/西紀一九五一/先生百五十周年祭記念/本居宣長翁遺蹟顕彰会」。
 碑文の西側は、「先生伊勢の人宝暦年間今より二百年前二十三歳にして京に出で此町の堀景山に漢学を修め近隣の武川幸順に医術を学ぶこと五年郷に帰つて遂に国学を大成す新村出撰文並書」。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「本居宣長記念館」、『京都大事典』、『増補版 京都の医史跡探訪』 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 本居宣長先生修学之地 〒600-8431 京都市下京区善長寺町143,綾小路通室町西入ル南側
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