近衛天皇 火葬塚 (京都市北区)  
cremation mound of Emperor Konoe
近衛天皇 火葬塚 近衛天皇 火葬塚
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 紫野花ノ坊町(むらさきの-はなのぼうちょう)の住宅街、路地奥に第76代・近衛天皇火葬塚(このえ-てんのう-かそうづか)がある。
◆歴史年表 平安時代、1155年、7月23日、近衛天皇が夭逝した。8月1日、葬送され、船岡山の西の山作所(さんさくしょ/やまつくりどころ、 陵墓造営のための臨時に置かれた官司)で火葬にされる。8月2日、遺骨は、知足院(ちそくいん)本堂に安置された。火葬跡には、墳丘が築かれ現在の火葬塚になる。
 1163年、11月28日、遺骨は安楽寿院の新御塔(しんみとう)(鳥羽東殿、美福門院の多宝塔)に改葬される。
◆近衛天皇  平安時代後期の第76代・近衛天皇(このえ-てんのう、1139-1155)。体仁(なりひと) 。第74代・鳥羽天皇の第9皇子。母は贈左大臣藤原長実の娘・藤原得子(とくし、美福門院[びふくもんいん] )。生後3カ月で立太子になる。父・鳥羽上皇は、白河法皇(第72代)により即位した、親王の異母兄・崇徳天皇(第75代)の排除を意図した。1141年、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)する。1142年、崇徳天皇の譲位により、3歳で即位する。鳥羽上皇が院政を行い、藤原忠通が摂政関白になる。1153年、眼病により失明した。1155年、夭逝する。皇子はなく、雅仁親王(第77代・後白河天皇)が即位した。その死について崇徳上皇、藤原忠実(ただざね)・頼長父子らの呪詛によるとの噂が流れた。17歳。
 左大臣・藤原頼長は養女・多子を、摂政・藤原忠通は養女・呈子を入内させている。いずれにも皇子は誕生しなかった。眉目秀麗、儀礼を学び、和歌に優れた。勅撰集に採録された。
 火葬塚(北区)がある。陵墓は安楽寿院南陵(伏見区)になる。
◆火葬塚 火葬塚域は方形で、土盛、堀がある。南面している。
 
平安時代、1155年7月23日、近衛天皇が夭逝した。8月1日、葬送され、船岡山の西の山作所(さんさくしょ)で火葬にされる。8月2日、遺骨は、知足院(ちそくいん)本堂に安置された。火葬跡には、墳丘が築かれ火葬塚になる。
 火葬塚は、かつての火葬場所になる。古代-中世には、火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた。最も格式の高い葬法であり、公式には天皇と近親者に限られた。火葬後に遺骨は別の墳墓に納められた。火葬地の施設を取り除いた後に土を盛り、石卒都婆を立てた。釘貫(くぎぬき、木戸)を建て四面に溝を掘った。(『吉事略儀』) 
◆知足院 「知足院」は、平安時代、918年以前に、紫野・雲林院付近に創建されたという。天台宗園城寺の別院で、不動明王像(知足院不動)、如意輪観音、釈迦像の三尊を本尊にしたという。
 関白・藤原忠実(1078-1162)は、1156年の保元の乱後、その責を問われ当院に籠居させられた。女房・播磨のために周辺に伽藍を建立している。忠実はここで没し、知足院関白と呼ばれた。寺院は、中世、兵火により焼失したという。
 常徳寺(北区)は知足院の後身といわれ、山号の知足山もこれに因む。知足院関連の古文書も所蔵している。


74 鳥羽天皇 (在位:1107-1123)→75 崇徳天皇 (在位:1123-1141)→76 近衛天皇 (在位:1141-1155)→77 後白河天皇 (在位:1155-1158)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『図説天皇陵』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 近衛天皇 火葬塚  〒603-8302 京都市北区紫野花ノ坊町
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