一条天皇皇后定子 鳥戸野陵 (京都市東山区)  
Imperial mausoleum of Empress Teishi
一条天皇皇后定子 鳥戸野陵  一条天皇皇后定子 鳥戸野陵
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西の眺望、京都市街地


「鳥戸野陵 中尾陵」の石標
 泉涌寺の北、石段、石畳を登り詰めた丘陵地に、鳥戸野陵(とりべの の みささぎ) がある。
 平安時代中期の第66代・一条天皇の皇后・藤原定子(ふじわら の ていし)が葬られている。そのほか、平安時代の6人の皇后の火葬塚にもなっている。
◆歴史年表 平安時代中期、1000年、12月16日(新暦1月13日)、藤原定子は亡くなる。鳥戸野(鳥辺野)に葬られた。葬列が霊屋に着いた時、辺りは雪で覆われていた。雪を払い遺体は納められたという。(『栄花物語』)
◆藤原定子 平安時代中期の第66代・一条天皇の皇后・藤原定子(ふじわら の ていし、976-1000/1001)。内大臣・藤原道隆(みちたか)の娘、母は高階貴子(たかしなのきし)。990年、14歳で入内し、女御、中宮になる。993年、作家・清少納言が定子に仕えた。995年、父・道隆の没後、中関白家が衰微する。政権は藤原道長に移る。996年、叔父・道長と対立した兄・伊周(これちか)、兄・隆家らが、誤解がもとで花山院(第65代)の輿に矢を射かけた事件により2人は失脚した。これに伴い定子も出家した。その後も、定子に対する天皇の寵愛は変わらず、997年、大赦により再び参内した。修子(しゅうし)内親王、999年、敦康(あつやす)親王を相次いで産む。だが、道長の権勢下で、親王の立太子の望みはなかった。道長の娘・彰子(上東門院)が入内し、女御になる。1000年、彰子が中宮に立ち、定子は皇后になる。「一代二后(一人の天皇に后、中宮・皇后が同時に存在する状態)」の初例になる。この後も、天皇の愛情は定子に向けられた。1000年、次女・媄子(びし)内親王を産み、直後に亡くなる。歌に秀で『後拾遺和歌集』に歌が収められている。25歳。
 後宮での歌壇を形成した。清少納言の『枕草子』では、積善寺の長大な件に栄華な生活が描かれる。道隆、定子、伊周らが登場する。
◆藤原穏子 平安時代中期の第60代・醍醐天皇の中宮・藤原穏子(ふじわら の おんし、885-954) 。父は関白太政大臣・藤原基経(もとつね)、母は人康(さねやす)親王の王女。899年、兄・時平の画策により醍醐天皇の後宮に入る。901年、女御、903年、皇子・保明親王を産む。919年、康子内親王を産む。923年、保明親王が亡くなり、菅原道真の怨霊の祟りと噂された。その子・慶頼王が皇太孫に立てられる。同年、寛明(ゆたあきら)親王(第61代・朱雀天皇)を産む。皇后になる。925年、慶頼王が没し、寛明親王が皇太子になる。926年、成明(なりあきら)親王(第62代・村上天皇)を産む。930年、朱雀天皇が即位し国母になる。946年、朱雀天皇に譲位を迫り、皇太弟・成明親王(村上天皇)を即位させる。村上天皇の第2皇子・憲平親王の立太子させた。
 中宮、皇太后、太皇太后になる。兄・太政大臣・忠平と結び実権を握る。女院の先駆になる。女性初の日記『太后御記』を著した。
◆藤原詮子
 平安時代の第64代・円融天皇女御・藤原詮子(ふじわら の せんし/あきこ、962-1002)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。太政大臣兼家の次女。母は藤原時姫。978年、入内し、円融天皇の女御になる。980年、第1皇子・懐仁親王(第66代・一条天皇)を産む。986年、一条天皇の即位後、皇太后の宣下を受けた。991年、円融法皇の没後に病み、出家した。皇太后宮職(しき)を廃止し、太上天皇に準じ、東三条院と称した。女院号の初めになる。
 陵墓は宇治陵(宇治市)にある。
◆禎子内親王
 平安時代中期の第69代・後朱雀天皇の皇后・禎子内親王(ていし ないしんのう、1013-1094)。院号は陽明門院 (ようめいもんいん)。父は第67代・三条天皇の第3皇女、母は藤原道長の娘・中宮・妍子(けんし/きよこ)。生後4カ月で内親王宣下、1015年、准三宮、1023年、一品を叙され、1027年、敦良親王(後朱雀天皇)の宮に入る。1034年、尊仁(たかひと)親王(第71代・後三条天皇)を産む。その後、良子内親王、娟子(けんし)内親王を産む。1037年、皇太子が践祚し、中宮、皇后になる。1045年、後朱雀天皇が没し、落飾し、妙法覚と号した。1051年、皇太后、1068年、太皇太后になる。1069年、陽明門院の院号を宣下され、3例目の女院号になる。
◆藤原歓子 平安時代後期の第70代・冷泉天皇皇后・藤原歓子(ふじわら の かんし/よしこ、1021-1102)。藤原教通の3女。母は藤原公任の娘。1047年、入内、1048年、女御、1049年、皇子を出産する。皇子はすぐに亡くなる。1051年頃より、兄・静円の僧坊がある洛北小野に籠居した。1068年、皇后に冊立、天皇には皇太后章子内親王・皇后歓子・中宮寛子と3人の正妃が並ぶ。同年、天皇が没する。1074年、皇太后、小野の山荘を改め常寿院を建立した。1077年、出家した。1091年、白河上皇は歓子の山荘を訪れたという。(「小野御幸」「雪見御幸」)。1095年、小野堂を供養した。「小野山荘」で亡くなる。宇治木幡の宇治陵に埋葬された。
 小野皇太后とも呼ばれた。琵琶、絵画に長じた。
◆藤原賢子 平安時代中期-後期の第72代・白河天皇の中宮・藤原賢子(ふじわら の けんし/かたこ、1057-1084)。源顕房(あきふさ)の娘。母は源隆俊の娘・隆子。藤原師実(もろざね)の養女になる。1071年、皇太子妃、1074年、女御より中宮になる。以後、父・顕房は宮廷で権勢を振るう。同年、敦文(あつふみ)親王を産む。1076年、媞子内親王(郁芳門院)、1079年、善仁(たるひと)親王(第73代・堀河天皇)、令子内親王、禎子内親王らを産む。1084年、三条第で亡くなる。28歳。
 鳥辺野で火葬にされ、1085年、醍醐山上の円光院に納骨された。贈太皇太后。
 陵墓は上醍醐陵(伏見区)にある。
◆藤原苡子 平安時代後期の第73代・堀河天皇の女御・藤原苡子(ふじわら の  いし、1076-1103)。大納言・藤原実季(さねすえ)の娘。母は藤原経平の娘・睦子。斎宮俊子内親王が養母になる。1098年、入内し、女御になる。1099年、懐妊するが男子を流産した。1103年、宗仁(むねひと)親王(第74代・鳥羽天皇)羽天皇を産み亡くなる。28歳。
 1107年、鳥羽天皇の即位に伴い皇太后を追贈された。宇治の木幡山陵に葬られる。
◆陵墓 丘陵地にあり南西面している。石畳の参拝道、石段が続いている。
◆火葬塚 鳥戸野陵は、皇后、内親王の火葬塚にもなっている。
 平安時代初期の第60代・醍醐天皇皇后・藤原穏子(おんし/やすこ、885-954)、平安時代中期の第64代・円融天皇女御・尊称皇太后・藤原詮子(せんし/あきこ、962-1002)、平安時代後期の第69代・後朱雀天皇皇后・禎子内親王(ていし ないしんのう、1013-1094)、第70代・後冷泉天皇皇后・藤原歓子(かんし、1021 -1102)、第72代・白河天皇皇后・藤原賢子(けんし/かたいこ、1057-1084)、第73代・堀河天皇女御・贈皇太后・藤原苡子( いし、1076-1103)になる。


65 花山天皇(在位:984-986)→ 66 一条天皇 (在位:986-1011) →67 三条天皇 (在位:1011-1016)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『歴代天皇・皇后総覧』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 一条天皇皇后定子 鳥戸野陵 〒605-0957 京都市東山区泉山町今熊野
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