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長慶天皇 嵯峨東陵 (京都市右京区) Imperial mausoleum of Emperor Chokei |
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長慶天皇 嵯峨東陵 | 長慶天皇 嵯峨東陵 |
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![]() ![]() ![]() 参拝道、陵 ![]() ![]() 「長慶天皇 嵯峨東陵」の石標 ![]() ![]() 「長慶天皇皇子 承朝王墓」の石標 ![]() ![]() |
嵯峨天龍寺角倉町(さが-てんりゅうじ- すみのくら-ちょう)に、嵯峨東陵(さが の-ひがしの-みささぎ)がある。 南北朝時代-室町時代の第98代・南朝第3代・長慶天皇(ちょうけい-てんのう)の陵、その皇子・承朝王(じょうちょうおう)の墓がある。 ◆歴史年表 室町時代、1394年、8月1日、長慶天皇は亡くなる。その後、陵地については所在不明になる。 近代、1926年、10月21日、長慶天皇の在位が正式に認められる。(皇統加列) 1944年、2月21日、臨時陵墓調査委員会は、陵地を天龍寺塔頭・慶寿院跡に決定し、嵯峨東陵と名づけた。 ◆長慶天皇 南北朝時代-室町時代前期の第98代・南朝第3代・長慶天皇(ちょうけい-てんのう、1343-1394/1403)。詳細不明。寛成(ゆたなり)、別名は吉野帝、長慶院、慶寿院(けいじゅいん)、法名は覚理、金剛理。吉野(奈良県)の生まれ。第97代・南朝第2代・後村上天皇の第1皇子。母は嘉喜門院(かきもんいん)ともいう。1348年、父・後村上天皇とともに穴生(あのう、賀名生)に移る。1368年前後、父・後村上天皇の死去に伴い、摂津の行宮(あんぐう)・住吉で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)した。同母皇弟・煕成親王(第99代・南朝第4代)を皇太弟にした。当初は院政を行う。南朝は退潮しており、行宮は河内・天野山金剛寺、大和・吉野山、1379年頃、大和・栄山(えいざん)寺に移る。1375年/1376年、五十番歌合・五百番歌合御会を開く。1383年-1384年、第99代・後亀山天皇に譲位したという。一時は院政を執る。後に出家した。晩年には入京したとみられている。京都の慶寿院で亡くなったともいう。52歳。没後、皇子・海門承朝が菩提のために慶寿院を建立した。 文学・和歌に優れた。準勅撰『新葉和歌集』。『源氏物語』の注釈書『仙源抄(せんげんしょう)』を著した。 近世より天皇の在位(榊原忠次、徳川光圀)、非在位(塙保己一、谷森善家臣)について議論が続いた。近代以降、大正年間(1912-1926)、在位を確証する古写本『耕雲千首奥書』が発見されている。1926年、日本史学者・八代国治(やしろ-くにじ、1873-1924)の研究により、長慶天皇は正式に皇統譜に加えられた。同年、10月21日に皇統加列の詔書が発布される。新たに在位が認められた。 陵墓は嵯峨東陵(右京区)にある。 ◆海門承朝 南北朝時代-室町時代中期の皇族・臨済宗の僧・海門承朝(かいもん-じょうちょう、1374以前 -1443)。憲明、諡号は宝智円明禅師。第98代・南朝第3代・長慶天皇の第1皇子、母は不詳。1392年、南北朝合一後に落飾し、臨済宗夢窓派に属した。嵯峨・慈済院に籍を置き、空谷明応(常光国師)に師事した。絶海中津、鄂隠慧奯と親交があった。宝幢寺住持、相国寺30世、相国寺・常徳院主、南禅寺133世、天龍寺・雲居庵主。南禅寺住持に再任、相国寺・鹿苑院院主として僧録を司る。1443年、朝に鹿苑院を出て嵯峨・慶寿院に向かい、夜半に亡くなったという。父・長慶天皇の没後、父の菩提のために慶寿院を建立した。70歳。 1449年、第102代・後花園天皇より宝智円明禅師と追諡された。 墓所は、長慶天皇陵(右京区)の域内に「承朝王墓」として治定されている。 ◆陵墓 陵は円丘であり、南西面している。北に長慶天皇陵、南に承朝王墓が並存している。 長慶天皇が亡くなった地については確定していない。天皇の別称の慶寿院とは、嵯峨の禅宗寺院に因んでいる。皇子・海門承朝(かいもん-じょうちょう)が、亡き父・長慶天皇の菩提のために建立したという。承朝も住したという。 江戸時代-近代まで、天皇の在位、非在位についての議論が続いた。近代、1926年10月21日に正式に皇位にあったことが認められている。1944年2月11日、宮内省の宮内大臣の諮問機関・臨時陵墓調査委員会は、全国(東北、関東、四国)20余りの陵伝承に基づき、各地の実地調査を行う。実際には70カ所もの伝承地があったという。最終的には、「擬陵(ぎりょう)」の観点から現在地、天龍寺の塔頭・慶寿院(けいじゅいん)跡を陵地に定めた。この地は、長慶天皇の晩年にゆかり深く、天皇の終焉地とされ、没後の供養所だったという。 海門承朝墓もこの地に治定された。 96 後醍醐天皇(南朝、大覚寺統)(在位:1318-1339)→97 後村上天皇 (南朝、大覚寺統)(在位:1339-1368)→98 長慶天皇(南朝、大覚寺統) (在位:1368-1383)→99 後亀山天皇(南朝、大覚寺統)(在位:1383-1392) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』、『歴代天皇年号事典』、『京都市の地名』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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