旧第三高等学校艇庫・琵琶湖周航の歌 (滋賀県大津市)  
formerly,Third High School boat-house
旧第三高等学校艇庫・琵琶湖周航の歌 旧第三高等学校艇庫・琵琶湖周航の歌
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南側


南側


南側


南側


南側


南側


南側


南側


南側


南側


北側


北側、「三高&神陵 ヨットクラブ」と記されている。


北側


西側、屋根


南西側


【参照】1912年頃の艇庫、「紅萌ゆる丘の花」より、説明板より


【参照】2017年の艇庫、説明板より


琵琶湖周航記念碑


琵琶湖周航記念碑副碑


琵琶湖周航記念碑、歌詞


庭石


記念樹、クスノキ


琵琶湖第1疏水の取水口付近


琵琶湖


【参照】ヒツジグサの花蕾、京都府立植物園


【参照】ヒツジグサの開花、京都府立植物園


【参照】エゾヒツジグサ
 琵琶湖第1疏水の取水口(大津市三保ヶ崎)右岸に、旧第三高等学校艇庫(きゅう-だいさん-こうとうがっこう-ていこ)が建つ。現在は「ヨットクラブ神陵」が使用している。
 「琵琶湖周航の歌」を作詞した近代の科学者・歌人・小口太郎は、かつて三高水上部(ボート部)部員に属した。この艇庫から恒例の琵琶湖周航に向かっている。原曲作曲は、近代の吉田千秋による。
◆歴史年表 近代、1890年、琵琶湖第1疏水が完成した。
 1892年、第三高等学校に水上部(ボート部)が設立される。
 1893年、新艇3艘の進水式が行われた。
 1912年、現在の艇庫が建てられる。
 1915年、吉田千秋は英詩を翻訳し、自作曲「ひつじぐさ」を、雑誌『音楽界』に発表した。「琵琶湖周航の歌」原曲になる。
 1917年、6月、 小口太郎は三高水上部(ボート部)第二クルーの琵琶湖周航に参加した。途中で、作詞した「琵琶湖周航の歌」を部員に初披露した。
 現代、1950年、三高の閉校に伴い、艇庫は同校ヨット部出身者が結成した「三高ヨットクラブ」に引き継がれる。
 1959年、艇庫は後継組織として結成された「京都大学学生サークル神陵ヨットクラブ」が継承する。
 1973年、5月、「琵琶湖周航記念碑」(三保ヶ崎)が、第三高等学校衝涛会(しょうとうかい)により立てられた。
 1979年、堀準一により、「琵琶湖周航の歌」の原曲作曲者は、吉田と特定される。
 1993年、吉田の詳細が判明した。
◆小口太郎 近代の科学者・歌人・小口太郎(おぐち-たろう、1897-1924)。長野県岡谷市生まれ。裕福な地主・銀之助の長男、母はます。1904年、4月、地元の湊尋常小学校に入学した。1910年、4月、諏訪中学校(現・諏訪清陵高校)に入学する。1915年、4月、高島尋常小学校の代用教員を務める。8月、三高生の又従兄・浜孝平の影響を受け、三高進学を決意した。1916年、3月、高島尋常小学校を退職し、9月、京都の第三高等学校(現・京都大学)大学予科第二部乙類(理科)に入学、入寮した。入学直後に水上部(ボート部)に入部する。1917年、6月、 水上部二部クルーによる琵琶湖周航に初参加し、「琵琶湖周航の歌」を作詞し初めて発表した。9月、三高弁論部理事になる。1918年、2月、神陵擬国会の立憲真正会に所属し、党幹事役、議会請願委員長を担当した。6月、水上部二部クルーによる琵琶湖周航に参加し、歌詞6番まで完成させていたともいう。1919年、 7月、三高を卒業し、9月、東京帝国大学(現・東京大学)理学部物理学科に入学する。長岡半太郎、田丸卓郎らの指導を受けた。1921年、 この頃、理論物理学者・アインシュタインに興味を持つ。学内のローマ字の愛好会に入った。12月、「有線及び無線多重電信電話法」で特許を各国(日、英、独、加、仏、豪、スウェーデン)に出願した。1922年、3月、東京帝国大学の卒業後、5月、同大学航空研究所に嘱託として入所する。物理学者・寺田寅彦の指導を受けた。この頃、顕微鏡の分解能を増す研究を行う。6月、特許が日本を含む7カ国で許可される。1923年、 5月、上諏訪での徴兵検査で甲種合格し、6月、同研究所を退職した。帰郷し、9月、関東大震災後に再び上京する。12月、松本五十連隊に入営予定だった。年末、神経衰弱になり帰郷する。1924年、小口家菩提寺の近音(こうおん)寺に籠ったともいう。 4月、3カ国で追加特許が許可になる。5月、神経衰弱のため、入院中の東京府奥多摩の山田病院で自死した。26歳。
 作文、バイオリン、琴、尺八などを奏で、スポーツに親しんだ。寺田寅彦その死を悼んだという。
 墓は生家近くの小口家墓(岡谷市)になる。
◆吉田千秋 近代の吉田千秋(よしだ-ちあき、1895-1919)。新潟県新津市大鹿(おおしか)の生まれ。歴史地理学者・吉田東伍の次男、母はかつみ。1897年、母と上京し、父のもとに移る。幼年期より結核の症状があった。1901年、4月、東京府新宿の赤城尋常小学校に入学した。7月、大鹿の小鹿尋常小学校に移る。1905年、4月、新津高等小学校へ進学した。1906年、4月、赤城高等小学校に編入する。1907年、4月、東京府立第四中学校(現・都立戸山高校)に進学した。この頃より肺結核が悪化する。1910年、肺結核のため南湖院(神奈川県茅ヶ崎市)に入院する。病院長・高田耕安によりキリスト教に触れる。1月、鎌倉・逗子開成ボート遭難事件(七里ヶ浜ボート遭難事件)があり、開成中学生12人が死亡した。千秋は事件を知る。1912年、第四中学校を卒業し、大日本農会附属東京農学校(現・東京農業大学)に入学した。1913年、休学し、後に退学する。音楽、ローマ字関係雑誌に投稿し始める。1915年、英詩を翻訳し、自作曲を付けた「ひつじぐさ」を雑誌『音楽界』8月号に発表した。「琵琶湖周航の歌」の原曲になる。秋、転地療養のため、祖父母の住む大鹿に帰郷する。大鹿教友会(内村鑑三の無教会派、主宰者・木村孝太郎)に出入りする。讃美歌を作曲・編曲し、合唱指導した。入信はしなかった。1917年、「ふるさと近し」を作曲する。1918年、1月、父・東伍が千葉県で亡くなる。夏、千秋は受診のために上京する。病状は回復せず、10月、どうせ死ぬならという思いで帰郷した。1919年、2月、大鹿で肺結核により病没した。歌集『海泡集(うみのあわしゅう)』。24歳。
 独学で仏・独・ラテン・ギリシャ語など7カ国語に興味を持ち、海外文通をした。ローマ字研究・普及運動、やまとことば、方言学、神話、宗教学(キリスト教、仏教、神道)、天文学、動物学(昆虫、鳥類、魚類)、植物学(花卉球根)、博物学、土壌学、園芸学、地理学、絵画、翻訳・訳詞、作詞・作曲、写経などに関心があった。ハーモニカ、アコーディオン、バイオリンも奏でた。故郷で「国風詠草会」を作り和歌を詠んだ。
 墓は正法寺に隣接する吉田家墓地(新津市)にある。
◆堀準一 近現代の堀準一(?-1991)。詳細不明。1932年、第三高等学校を卒業後、京都帝国大学で物理学を専攻した。弁理士になる。
 「琵琶湖周航の歌」の調査、研究を続けた。1971年、原曲が「ひつじぐさ」であると突き止めた。1976年、原曲の楽譜を入手する。1979年、原曲作曲者は吉田千秋と特定した。没後の1993年、吉田の詳細が判明している。
◆旧第三高等学校艇庫 旧第三高等学校艇庫(現・ヨットクラブ神陵)は、琵琶湖の大津市三保ヶ崎にある。琵琶湖第1疏水の取水路右岸になる。近代、1912年に建てられた。
 漕艇部の歴史は、1880年に前身校が所在地した大阪の堂島川に始まる。その後、第三高等中学が京都の吉田に移る。1892年に水上部(のちボート部)が設立され、琵琶湖に漕艇を設置した。戦前はボート、戦後はヨットが用いられた。「琵琶湖周航の歌」の作詞者・小口太郎(1897-1924)も、この艇庫から琵琶湖周航に出発している。
 1950年の三高の閉校に伴い、艇庫は同校ヨット部出身者が結成した「三高ヨットクラブ」に引き継がれる。その後、1959年に後継組織として結成された、「京都大学学生サークル神陵ヨットクラブ」が利用した。その後、部員数の減少に伴い、京都大学への移管が試みられ、解体廃棄の危機に瀕した。現在はOB有志を中心にした「ヨットクラブ神陵」、在校生らが艇庫の利用、文化財登録の向けた活動などをしているという。
 艇庫は南面し、南側が湖面に接している。北側にも小さな入口扉があり、南側より高い位置に開いている。艇庫は部分的に補修が施された。ほぼ建築時の外観、構造をいまも保つという。 
 木造平屋建、波トタン葺、間口12.7m 奥行14.4m、建面積181㎡。
◆記念碑 「琵琶湖周航記念碑」が、1973年5月に第三高高等学校衝涛会(しょうとうかい)により立てられた。三保ヶ崎の旧第三高等学校艇庫の西にある。碑は伊予石(吉野川流域産)で、「われは湖の子」と刻字されている。揮毫・五十子巻三による。裏に黒御影石で「建碑の由来」が刻まれている。揮毫・長尾復斎による。
 すぐ近くにある赤御影石(津山産)の副碑には、「琵琶湖周航の歌」の歌詞が刻まれている。揮毫・池田種太郎による。
 周囲は庭園になっており、芝地に琵琶湖形の碑丘、大小30個の守山石(比良山系産)が配されている。クスノキの大木の記念樹がある。
◆琵琶湖周航の歌 近代、1892年に三高の嶽水会(がくすいかい)水上運動部(ボート部)が創設された。1893年にフィックス艇(固定席6人漕ぎ)の新艇3艘が建造される。同年4月に、三保ヶ崎で進水式が執り行われる。有志21人により琵琶湖周航が初めて行われた。以後、周航は学生たちによる恒例行事になる。
 琵琶湖周航とは、漕艇により三保ヶ崎の艇庫から漕ぎ出し、琵琶湖の西岸を北上する。時計周りに琵琶湖を一周して艇庫に戻った。4泊5日、3泊4日の日程が主だった。漕艇は漕手6人、舵手1人、ほか1-2人が乗船した。1940年頃まで周航は行われていたという。
 1916年9月に、小口太郎は第三高等学校大学予科第二部乙類(理科)に入学し、入寮した。入学直後に水上部に入部している。1917年6月に、 初めて水上部二部クルーによる琵琶湖周航に参加した。周航は、学年末(当時は7月卒業)の慣例行事だった。この時、小口が作詞した「琵琶湖周航の歌」を初めて部員に披露している。故郷の諏訪湖に思いを馳せ作詞したという。
 1918年6月に、小口は2回目の琵琶湖周航に参加した。6月27日からの4泊5日の周航200kmの航路だった。三保ヶ崎の艇庫を出港し、雄松(近江舞子)、今津に寄港する。竹生島を回遊し、長浜、彦根での寄港を経て、長命寺(近江八幡)を周遊後に、三保ヶ崎の艇庫に帰港した。
 1918年6月27日、部員らは「雄松」(志賀町近江舞子)に泊まり、28日夜には、今津の宿に宿泊した。完成した小口作の詩が部員に披露される。七五調四節で琵琶湖を中心とした滋賀県の風景が歌われていた。この時、3番まで歌われたとも、6番まで完成していたともいう。
 仲間が詩に、「ひつじぐさ」(8分の6拍子)の節を乗せた。三高の音楽同好会「桜楽会」が歌っていたもので、歌詞に合った。以後、「ひつじぐさ」での合唱が定着する。その後、歌詞は小口を含む何人かで修正・追加されている。1918年夏までに、6番までの全歌詞が完成したともいう。
 原曲作曲者について、当初は、作詞作曲・小口太郎、三高ボート部などとされた。京都大学OBの弁理士・堀準一らの継続的な調査が行われ、1971年に原曲が「ひつじぐさ」であると判明した。堀は1976年に楽譜を入手している。1979年に、作曲者は吉田ちあき(千秋)であると特定した。
 歌曲四重音唱歌「ひつじぐさ」は、1915年『音楽会』8月号の巻頭に掲載されている。吉田がイギリスの児童用唱歌、E.R.B作の「睡蓮(water lilies)」の訳詞に曲を付けたものだった。桜楽会会員が手写した楽譜「睡蓮」にも、「吉田ちあき作曲」と明記されていた。桜楽会が歌っていた「ひつじぐさ」が、琵琶湖周航の歌の原曲になったことが確定した。 
 堀の没後の1993年6月に、吉田についての詳細が判明した。1915年に吉田は東京から新潟県に転居していたことは既に判明していた。今津町から地元新聞『新潟日報』へ作曲者探しの依頼があった。報道後に、歴史地理学者・吉田東伍の次男であることなど吉田千秋の消息が判明する。
 吉田は1919年に24歳で亡くなっている。その2年後の1924年に、小口は26歳で自死した。生前の2人の若者に交流はなかった。吉田は琵琶湖のことも、自作曲が「琵琶湖周航の歌」の原曲になったことも知らない。両人はともにローマ字に興味を持ち、音楽を愛していた。
 曲は口伝えで継承されたため、次第に原曲とは異なっていく。昭和期(1926-1989)に入り、「七里ヶ浜の哀歌」、「琵琶湖哀歌」の曲調の影響も受け、音階の調整も加えられたという。
◆琵琶湖周航の歌 「琵琶湖周航の歌」は作詞 ・小口太郎、原曲・吉田千秋による。歌は当初、三高の水上部歌として作られ、後に、「紅萠ゆる」に次ぎ、三高の寮歌・学生歌の一つとして伝えられる。
 歌詞は数カ所ほど手直しされたといわれている。曲も変遷している。下記は当初の作詞に近いとされている。なお、歌詞中の「西国十番長命寺(近江八幡市)」は誤記であり、実際には三十一番札所になる。
 1. 吾れは水(うみ)の子さすらひの/旅にしあればしみじみと/烟(けむ)る狭霧やさざなみの/滋賀の都よいざさらば
 2. 松は緑に砂白き/小松が里の少女子よ/暗い椿の 森蔭に/はかなき恋に泣くとかや
 3. 浪の間に間に漂へば/赤い泊火(とまりび)なつかしみ/行方定めぬ浪枕/今日は今津か長濱か
 4.瑠璃(るり)の花園珊瑚(さんご)の宮/古き傳(つた)への竹生島/佛のみ手にいだかれて/ねむれよ乙女子やすらけく
 5. 矢の根は 深く埋もれて/夏草しげき堀のあと/古城にひとり佇(たたず)めば/比良も伊吹も 夢のごと
 6. 西国十番 長命寺/汚れの現世(うつしよ)遠く去りて/黄金の波にいざこがん/語れ我が友熱き心
◆ひつじ草の訳詞 吉田千秋がイギリスの児童用唱歌であるE.R.B作の「睡蓮(water lilies)」の訳詞「ひつじ草」は、次のようになる。
 1.おぼろ月夜の/月明かり/かすかに池の面(おも)に落ち/波間に浮かぶ数知らぬ/ひつじぐさをぞ照らすなる
 2.雪かとまがふ/花びらは/黄金の蕊(しべ)を取り巻きつ/波のまにまに揺るげども/花の心は波立たず
 3.風吹かば吹け/空曇れ/雨降れ/波立て さりながら/あだなみの下底深く
◆逗子開成ボート遭難事件 近代、1910年に、「逗子開成ボート遭難事件(七里ヶ浜ボート遭難事件)」が起きた。以前より、「琵琶湖周航の歌」と遭難事件を歌った「七里ヶ浜の哀歌」との間に、何らかの関係があるのではないかと指摘されていた。
 1910年1月23日に、逗子開成中学校(現・逗子開成高校)(神奈川県逗子市)の生徒11人、逗子小学校の児童1人を乗せたボート「箱根号」が、鎌倉七里ヶ浜の行合川沖で転覆遭難した。ボートは悪天候の中、許可なく葉山を出艇し、折からの突風に煽られ転覆している。直後に半鐘が打ち鳴らされ、悪天候をついて地元の漁船が救出に向かったものの、学生らを発見することはできなかった。翌1月24日より、海軍掃海艇、潜水器船などによる捜索が続けられる。1月27日までに、遭難者12人全員が遺体で発見された。 
 東京芝・増上寺から導師が遣わされた。2月5日に久木妙光寺、2月6日に、逗子開成中学校庭で大追悼会が催される。この時、作詞・三角錫子(みすみ-すずこ、1872-1921)、作曲・インガルスの「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺[根]、ボート遭難の歌)」が、系列校・鎌倉女学校の生徒によって歌われた。その後、1964年に鎌倉海浜公園(稲村ヶ崎)に遭難碑が立てられる。2人の少年の立像であり、事件で亡くなった徳田兄弟をモデルにした。
 「琵琶湖周航の歌」の原曲作曲者の吉田千秋は、1910年当時、持病の肺結核により南湖院(神奈川県茅ヶ崎市)に入院している。近年に発見された吉田のノートの五線譜外には、「逗子中学生ボート沈没に居合わせて」と記されていた。少なくとも千秋が、事件を認識していたことが明らかになった。
 なお、遭難事件後に、当時の逗子開成中学校ボート部部長は引責辞任した。後にその息子の小説家・宮内寒弥(みやうち-かんや、1912-1983)は、父没後20年を機に、小説『七里ヶ浜』(1978)を上梓する。遭難事件を取材し、作詞した三角のことなども記され話題になった。
◆文学 近現代の小説家・中国文学者・高橋和巳(1931- 1971)の『邪宗門』(1965)には、三高ボート部、宿舎、艇庫などの描写がある。
◆ヒツジグサ ヒツジグサ(Nymphaea tetragona; water lily)は、スイレン科の多年生水草になる。アジア東部、日本では本州、九州の池沼、川に分布する。日本での唯一の野生スイレンになる。
 名の由来は、未(ひつじ)の刻(午後2時頃)に開花するためという。水底の泥中にある短い根茎から長い葉柄を出す。葉は楕円形(長さ8-15cm、幅5-12cm)で、基部には深い切れ込みが入り、水面に浮かぶ。葉の表面には光沢があり、裏面は暗紫色をしている。
 夏に細長い花柄を出し、水面に尖った白い花びら(径5cm)が8枚-15枚ほど開く。萼(がく)片は4枚、黄色い蕊(しべ)は多数あり螺旋状になっている。果実は卵円形の液果で、熟した黒い種子を水中に放出する。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 「ヨットクラブ神陵艇庫」説明板、琵琶湖周航記念碑建碑の由来、『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』、『琵琶湖周航の歌」誕生の謎』、『琵琶湖周航の歌-うたの心』、「琵琶湖周航の歌」原曲誕生100年 滋賀で愛され続け-京都新聞2015年10月13日付」、ウェブサイト「吉田千秋について- 新潟市秋葉区役所」、ウェブサイト「琵琶湖周航の歌-滋賀県高島市」、ウェブサイト「太郎さんの青春-広報おかや 2018年10月号」、ウェブサイト「開成学園ボート遭難事件 - 逗子市立図書館」、ウェブサイト「世界の民謡・童謡」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 旧第三高等学校艇庫・琵琶湖周航の歌 〒520-0032 滋賀県大津市観音寺1(三保ヶ崎右岸)    
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