崇福寺跡・梵釈寺跡 (滋賀県大津市)
Ruins of Sufuku-ji Temple
崇福寺跡・梵釈寺跡  崇福寺跡・梵釈寺跡
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南尾根


南尾根への山道




南尾根、「崇福寺旧址」の石碑


南尾根、金堂跡



南尾根、金堂跡の礎石


南尾根、講堂跡


南尾根、もう一つの講堂跡


南尾根、左に金堂跡、右に講堂跡、その上にも別の建物跡がある。説明板より。


全体図、下が南尾根、中央に中尾根、その上に北尾根、各谷筋には山道、谷川がある。説明板より。


全体図、下が南尾根、中央に中尾根、その上に北尾根。説明板より。


全体の平坦地の航空写真、説明板より。


中尾根、塔跡


中尾根、塔跡の礎石


中尾根、小金堂跡






中尾根、左が小金堂跡、右が塔跡、説明板より。    


中尾根、塔跡より見つかった「崇福寺塔心礎納置品」。左奥に「金銅外箱」、右奥に「銀製中箱」、左手前に「金製内箱」、右手前に「瑠璃壺」、これらが入子状に納められていた。説明板より。


北尾根と中尾根の間の金仙滝、左に霊窟がある。


北尾根、弥勒堂跡


北尾根、弥勒堂跡


北尾根、庭石のようにも見える複数の石も残る。


北尾根、弥勒堂跡、説明板より。          
 比叡山南東の尾根筋の森に、飛鳥時代、大津京の鎮護のために創建されたという崇福寺(すうふくじ)跡がある。大規模な寺院であり、「志賀寺(しがでら)」、「志賀山寺(しがのやまでら/しがさんじ)」とも呼ばれた。また、梵釈(ぼんしゃく)寺跡とみられる遺構もある。 
 現在、一帯の森林は国の史跡、歴史的風土特別保存地区に指定されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、668年、第38代・天智天皇の命により、近江大津京の鎮護のために、乾(北西)の方角の山中に建立されたという。金堂、講堂、小金堂、三重宝塔、僧房などが建てられた。(『扶桑略記』『延暦僧録』『今昔物語』など)。異説もある。当初は志賀山寺と呼ばれていた。
 672年、壬申の乱後は造営中止になったという。
 701年、貴顕が「志我山寺」に参詣する。太政官処分があり、食封(じきふ、寺院などに俸禄とした封戸<ふこ>)を、前年の700年より30年で停止するとした。(『続日本紀』)。以後、優遇策により伽藍整備が進む。
 奈良時代、729年、「紫郷山寺」と記されている。官寺に列した。(『続日本紀』)
 740年、第45代・聖武天皇が近江国に行幸し、崇福寺に参詣した。貴顕が「志賀山寺」に参詣する。(『続日本紀』)
 749年、「崇福寺」と記されている。(『続日本紀』)
 757年、「崇福寺 百戸近江国天平宝字元年施」とある。(『新抄格勅符抄』)
 786年、天智天皇系の第50代・桓武天皇が天智天皇の追慕、仏教復興を祈念して志賀に梵釈(ぼんしゃく)寺を建立したという。現在の南尾根付近とみられている。(『続日本紀』)
 平安時代、794年以降、平安京遷都後も桓武天皇の当寺への崇敬が続いていたという。
 798年、延暦年間(782-806)とも、十の官寺、十大寺の一つに定められ栄える。この頃、三井寺末だった。(「太政官符」『類聚三代格』『拾芥抄』)
 815年、第52代・嵯峨天皇が平安京より山越により崇福寺、近くの梵釈寺に立寄る。梵釈寺で永忠が茶を煎じて献じた。飲茶の初出になる。天皇は湖上唐崎あたりを遊覧した。また、「崇福梵釈」とあり、崇福寺、梵釈寺で、検校・永忠を慕う道俗の集いは、牛馬による仏地穢れがあるとして禁じられる。(『日本後記』)
 921年、堂塔などを焼失した。建立後253年と記されている。(『日本紀略』)
 922年、梵釈寺の別当が崇福寺も検校したともいう。(『類聚国史』)
 965年、失火により焼失した。
 976年、大地震により堂舎が倒壊する。
 986年、円融上皇(第64代)が臨幸する。(『百錬抄』)
 996年-1008年頃、「寺は壺坂、笠置、法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山、粉河、志賀」と記されている。(『枕草子』二〇八段)
 1005年、藤原道長が参詣した。(『御堂関白記』)
 1022年、焼失する。(『小右記』)
 平安時代末、山門(延暦寺)、寺門(三井寺)の対立に巻き込まれ衰微する。
 鎌倉時代、1230年、勅により園城寺(三井寺)の中院、北院の所属になる。(『三井続灯記』)
 室町時代、鎌倉時代後半とも、廃寺になったという。
 近代、1928年、崇福寺の寺跡が発掘される。
 1938-1939年、現在地の「丸山の寺跡」で発掘調査が行われる。
 1939年、三重塔跡の塔心礎に穿たれた舎利孔から納置品などが発見された。
 1940年、崇福寺跡は国史跡に指定された。
 1941年、.一帯は史跡名勝天然記念物に指定される。
 現代、1989年、国宝発掘50周年記念として崇福寺跡心礎跡鎮魂供養祭が、近江神宮、園城寺により行われた。
◆天智天皇 飛鳥時代の第38代・天智天皇(てんじ てんのう、626-672)。葛城(かずらきの)皇子、中大兄(なかのおおえの)皇子などとも称された。第34代・舒明(じょめい)天皇皇子、母は宝皇女(後の第35代・皇極・第37代・斉明天皇)。644年、中臣鎌子(なかとみのかまこ、藤原鎌足)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)と蘇我氏の横暴に対してその打倒を図る。645年、大極殿において蘇我入鹿を暗殺し、第36代・孝徳天皇が即位、自らは皇太子に任じられ実資的な執政を行う。大化の年号が始まり、大化の改新を断行する。異母兄・古人(ふるひと)大兄皇子を討つ。蘇我蘇我蝦夷は自殺する。646年、改新の詔が発せられ公地公民制の実現を図る。649年、冠位十九階が制定された。蘇我倉山田石川麻呂を自決させた。652年、班田収授法を施行した。戸籍が作成される。653年、第2回遣唐使が派遣される。(都合5回)。654年、第37代・斉明天皇が即位する。658年、孝徳天皇の子・有間(ありま)皇子を謀反の名目で処刑した。661年、斉明天皇没後、即位せずに7年間政務を執る。(素服称制<そふくしょうせい>)。662年、新羅に軍船を送る。658年、蝦夷征伐。663年、日本の水軍27000は、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との白村江(はくすきのえ)で敗れ、戦後処理などを行う。664年、二十六階の冠位制を設け、氏上(うじのかみ)など官人の整備を行う。対馬などに防人(さきもり)、烽(とぶひ)を置き、筑紫に水城(みずき)を築く。665年、百済よりの亡命渡来人400人を近江国神前郡に定住させた。667年、大和・飛鳥より近江・大津京に遷都し、弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太弟とした。668年、即位する。大津京鎮護のために、大和三輪山の大神(おおみわ)神社から大己貴神(大物主大神)を大宮(現在の日吉大社西本宮)に勧請した。670年、初の戸籍、庚午年籍(こうごねんじゃく)を作る。671年、大友皇子を太政大臣とし、子・大友皇子の政権確立を意図した。初の法律の成文化された法典・近江令(りょう)全22巻を施行したともいう。公的には近代まで存続した。自ら製造したという漏刻(ろうこく、水時計)を初めて用いる。
 『万葉集』に4首の歌を残す。近江大津宮で亡くなる。墓所は山科陵とされる。
◆大津京 大津京(大津宮)の詳細は分かっていない。飛鳥時代、663年に飛鳥より遷都になった大津宮は、錦織遺跡(大津市錦織2丁目)を中心として、琵琶湖の西岸に建都されたとみられている。
 663年の白村江の戦いにより、日本は、唐・新羅の連合軍に敗れた。中大兄皇子は、国防、国内体制強化をはかるために、大津京を造営したといわれている。旧勢力の影響を避け亡命した、百済系渡来人が多く居住していた近江が選ばれたという。664年、皇子は第38代・天智天皇として即位した。だが、672年の壬申の乱後、第40代・天武天皇は飛鳥浄御原宮に遷都し、大津京はわずか5年で廃都になる。
 大津京の四方に、防御的な城郭の意味も含めて4つの寺院が配置されていたという。大津京の北に南志賀町寺、北東に穴太寺、北西に崇福寺(志賀寺)、南部には、園城寺前身寺(あるいは園城寺)があったとみられている。これらの位置確定により、大津京の所在地を探る手がかりにもなるとされている。
 江戸時代以来、寒川辰清は大津宮の伝承地として錦織の地を紹介した。近代以降、宮跡所在地をめぐる論争が起こる。1895年、この錦織に「志賀宮址碑」が建立された。1901年、木村一郎は、志賀里説を提唱する。1927年、滋賀町廃寺跡を第50代・桓武天皇が創建した梵釈寺とし、大津京内裏跡ともされた。1941年、崇福寺跡が国の史跡に指定される。1979年、錦織遺跡は国の史跡に指定されている。1989年、山尾幸久は、平安時代には宮跡地が「粟津」とみなされていたとした。
◆崇福寺遺跡 江戸時代、この地は崇福寺跡との伝承が既にあった。1928年に一帯が発掘される。1939年、中尾根の三重塔跡の塔心礎に穿たれた舎利孔から納置品などが発見されている。
 寺跡は、比叡山系の南東の3つの尾根周辺にある。各尾根の遺跡は、谷を隔てて南北のほぼ線上に並んでいる。
 一番南、南尾根上に平坦地があり、金堂跡、講堂跡、南尾根講堂跡北側礎石群がある。金堂跡には、現在、「崇福寺旧址」という石碑が立つ。この付近に、5.5m四方の基壇があり 5間4間の南面する金堂が建てられていたとみられている。東には、5間四方の南面する講堂跡がある。その北に、さらに3間2間の建物があった。南尾根の遺跡は、中尾根、北尾根の遺跡とは、基壇の方位、礎石の形状が異なり、崇福寺の創建とされる白鳳時代(645-710)の遺物が発見されていない。このため、崇福寺建立後に建てられた、別寺の梵釈寺の遺構ではないかとみられている。
 谷を隔てた中尾根の尾根上の平坦地には、東西方向に2つの基壇跡が残る。東は塔跡(三重塔跡)、西は小金堂(しょうこんどう)跡になる。塔跡は、基壇の中心の塔心礎周りに4石、その外側に方形に12石の礎石が囲んでいる。基壇中央の地下1m余りに塔心礎があり、側面に舎利孔が開けられていた。この中に、舎利器、装身具が納められていた。周辺より塼仏、塑像破片も見つかっている。
 北尾根の平坦地に弥勒堂跡、北尾根弥勒堂跡東側礎石群などが残されている。弥勒堂跡には、瓦積基壇があり、礎石24個があり、5間3間の伽藍があったとみられている。さらに東側に別の瓦積基壇の一部、石垣なども見つかっている。
 そのほか、いくつかの平坦地が山中に残されており、これらも伽藍跡の可能性が指摘されている。大規模な寺院だったと考えられている。
◆遺物 「崇福寺塔心礎納置品」(国宝)は、1938年に崇福寺跡の中尾根、塔跡の塔心礎の舎利孔より見つかった。7世紀作とされる。舎利3粒、舎利容器一具(金蓋碧瑠璃壺1口、金製内箱1口、銀製中箱1口、金銅外箱1口)から成る。これらの3箱が入子状に格納され、中心に瑠璃壺が納められていた。
 1938年の発掘調査により、中尾根の塔跡にある三重塔基壇中央の地下1.2m余りに塔心礎があった。不整形の自然石表面(直径約1.8m、短径1.5m)には、柱請凹座(径53㎝、深さ10㎝)があり、その南側面中央部に小孔が穿たれていた。この「舎利孔(奉納孔)」は、半円形(底部の長さ21㎝、高さ18㎝、奥行27㎝)であり、同形の石で蓋されていた。孔内の周壁、蓋の裏はすべて朱を塗り、金箔が施されていた。この舎利孔に納置品を納めていた。
 ◈「舎利」は水晶片3個による。この水晶片3粒は瑠璃壺に納められていたとみられている。ただ、発見時には蓋が外れており壺外で見つかった。
 ◈「瑠璃壺」は、濃緑色をしており球形に近い壺であり、上に金板打ち出しの金蓋が被せられている。中には、水晶片の「舎利」3粒が納められていた。ガラス製、口径1.7cm、高さ3㎝。
 ◈「金製内箱」は、甲盛の被せ蓋、身は角丸長方形の身で、いずれも鋳造だった。留金に指貫の鋲で連結されており、蓋が開閉できる。瑠璃壺を安定させて置くために、金銅透彫八稜形請花(うけばな)を設けている。縦6㎝、横4.3㎝、高さ3.3㎝。
 ◈「銀製中箱」は、甲盛の被せ蓋、身は角丸長方形の身で、いずれも鋳造であり、全体に丸みを帯びている。蓋も身も鋳造であり、留金に指貫の鋲で連結され蓋が開閉できる。縦7.9㎝、横5.8㎝、高3.9㎝。
 ◈「金銅外箱」は、角面で鋳造、台脚(2.4㎝)に格狭間がある。外箱と内に納められていた銀中箱との間に、石灰か漆喰が充填されており、紫水晶片2個、ガラス玉14個が納められていた。縦10.6㎝、横7.9㎝、高さ7.6㎝。
 容器の外に「金銅背鉄鏡1面(装身具)」が置かれていた。忍冬唐草文、隙間に魚々子(ななこ、小さな円文)の彫金がある。金銅板、径7.8㎝。
 ◈ほかに、「瑠璃玉」一括、「硬玉製丸玉」3顆(装身具)、「無文銀銭」11枚(装身具)、「水晶粒」2顆、「銅鈴(残欠共)」2口(装身具)、「金箔木片」などがある。    
 「崇福寺塔心礎納置品」は、1944年に重文指定され、1952年に国宝指定された。すべての出土品は、1941年に宮内省より近江神宮に社宝として下付された。その後、大津市歴史博物館を経て、現在は京都国立博物館に寄託されている。
 ◈「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」は、周縁に鋸歯文、雷文帯がある。泥塔、塼仏、皇朝一二銭などの銅銭類(重文)。 
◆崇福寺伝承 崇福寺跡の北尾根と中尾根の間の谷筋に、細い流れがある。川の途中に「金仙滝(きんせんのたき)」と呼ばれる小さな滝があり、その傍らに洞窟「霊窟」と呼ばれる岩が立ち、中は岩室になっている。滝には、崇福寺建立にまつわる伝承がある。
 天智天皇は、寺院建立を思い立つ。願をかけた夜に夢告があり一人の僧が現われた。僧は、大津京の乾の方角(北西)に良所があると告げる。天皇が目を覚ますと乾の方角に光輝き、あたり一帯を明るく照らし出している。翌朝、使いを遣り山を訪ねさせた。奥深い洞窟があり怪異な一人の翁がいた。天皇も翁を訪ねると、老翁は、この地がかつて仙人の住む霊窟と告げて消え失せた。天皇は霊地での寺院建立を決める。
 整地の際に、地中より3尺程の宝塔が発見された。かつて、アショカ王が多くの塔を建てた中の一つであると知らされる。翌年、正月、崇福寺が建立され、丈六の弥勒像を安置した。開眼供養の日、天皇は、誓願を深め、自らの右の薬指を灯籠とし、指を切り落とし石箱に納め、灯籠の土中に埋めたという。
 後世、寺の霊験はあらたかだった。ただ、清浄でない者が近寄ると、谷に投げ落とされるなどした。寺の別当は、人の参詣がないのは天皇の指のためとして、掘り出して捨てようとした。穴を掘らせると雷鳴轟き、風雨になる。掘り出した指は、いま切ったかのように鮮やかに白く光り、間もなく水のように溶けて消えた。その後、別当は狂死し、寺の霊験もなくなり衰微したという。(『今昔物語』『扶桑略記』『三宝絵詞』)
◆文学  崇福寺については、平安時代、759年以後に成立した『万葉集』(巻2-115)が初出という。歌枕にもなっている。「穂積皇子に勅(みことのり)して、近江の志賀の山寺に遣はしし時に、但馬皇女の作らませる歌一首」、「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ 道の隈廻(くまみ)に 標結(しめゆ)へ我が背(せ)」とある。
 鎌倉次代初期の公卿・歌人・藤原良経(1169-1206)に、「波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕べさびしき志賀の山寺」などがある。
◆志賀山越 平安時代初期、京都より崇福寺(志賀寺)に向かう道は、志賀山越(しがのやまごえ)と呼ばれていた。志賀越、山中越、白川越、今道(路)越、安土海道などとも呼ばれた。当寺への参詣道であり、近江に向かう比較的高低の少ない最短の峠越にもなっていた。
 京都の荒神口、今出川、北白川街道を経て、志賀山峠(現在の山中越)を越え近江に入った。崇福寺よりは、さらに比叡山延暦寺に参道が続いていた。
 平安時代末には、今路越、逢坂越、小関越などに替えられ、峠道は廃絶する。南北朝時代、『太平記』(1318-1368頃)にも記され、京都へ入る軍勢が通った。安土・桃山時代、1570年、織田信長は道を整備している。近世に再び間道として利用された。
◆梵釈寺 梵釈(ぼんしゃく)寺の詳細は不明。奈良時代、786年、桓武天皇が天智天皇の追慕、仏教の復興を祈念して建立したという。(『続日本紀』)。平安時代、815年、「崇福梵釈」の名がある。(『日本後記』)。922年、梵釈寺の別当が崇福寺も検校したともいう。(『類聚国史』)。
 梵釈寺は、崇福寺の近くにあったという。現在の南尾根の金堂、講堂、南尾根講堂跡北側礎石群は、主軸の方向が北尾根、中尾根の遺跡と5度のズレがある。創建時の出土品がないことなどから、別の寺院があったとみられている。この地が梵釈寺跡ともいう。一帯は、崇福寺、梵釈寺の複合遺跡とも考えられ、両寺は関係していたともいう。なお、周辺の平安時代の長尾遺跡、上高砂遺跡も両寺との関連が指摘されている。
◆茶 滋賀と茶は関わりがある。
 平安時代、815年、第52代・嵯峨天皇は唐崎行幸の折、志賀里の崇福寺、梵釈寺に立ち寄り、永忠が煎茶(団茶、餅茶)を点てたとある。これが、飲茶の文献初出になる。また、この後、天皇の命により、畿内、近江、丹波、播摩などで茶を栽培し、毎年、献じたとある。(『日本後記』)。永忠は、かつて唐に渡り長安でも30年を過ごしたという。
 805年、唐より帰国した最澄ゆかりの、比叡山東麓の日吉茶園の伝承も残る。最澄の弟子・円仁は、遣唐使として渡り、唐より茶葉(蒙頂茶)を持ち帰っている。
◆樹木 サクラ、カエデが植えられている。


*参道、遺跡は整備され、表示板もあり分かりやすくなっています。付近に人家はありませんが、比較的近くに住宅街があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 大津市教育委員会の説明板、『近江・若狭・越前寺院神社大事典』『日本の国宝 77 滋賀/園城寺(三井寺)近江神宮』『京都の地名検証 3』『近江神宮 天智天皇と大津京』『滋賀県百科事典』『京都大事典』、サイト「近江神宮」、サイト「天智聖徳文教財団」


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map  崇福寺跡 〒520-0000  大津市滋賀里町甲 
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