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浄国寺 (京都市下京区) Jokoku-ji Temple |
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浄国寺 (京都市下京区) | 浄国寺 (京都市下京区) |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 鬼瓦 |
浄国寺(じょうこく-じ)は、山号を蓮池山という。かつて「蓮池寺」、「果(は)ての二十日寺」とも呼ばれた。 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 平安時代前期、この地には、公卿・藤原良相(ふじわら-の-よしみ、813-867)の六条邸宅「崇親院」が営まれた。 室町時代、1560年、信誉暁把により五条東洞院に浄国寺は創建された。 安土・桃山時代、1585年、豊臣秀吉の改造計画により、浄国寺は現在地に移される。信誉隣水により再興された。 近世(安土・桃山時代江戸時代)、「果(は)ての二十日寺」とも呼ばれる。 江戸時代、1788年、旧12月、天明の大火で類焼した。 ◆藤原 良相 平安時代前期の公卿・官人・藤原 良相(ふじわら-の-よしみ/よしあう、813-867)。男性。西三条大臣。父・藤原冬嗣、母・尚侍・藤原美都子(藤原真作の娘)の5男。次兄は良房。834年、蔵人、左近衛少将。842年、廃太子を伴う藤原氏による最初の他氏排斥事件、「承和の変」で近衛を率いた。848年、参議、春宮大夫。851年、従三位権中納言。857年、右大弁、正二位。866年、応天門の変で、伴善男とともに左大臣・源信を陥れようとしたという。その後、勢力を失う。「貞観格式(じょうがんきゃくしき)」「続日本後紀」の編修に関わる。妻は相模権掾大枝乙枝の娘、娘・多可幾子・多美子は、第55代・文徳・第56代・清和天皇の女御になる。贈正一位。55歳。 信心深く、仏教に帰依した。六条の邸宅「崇親院」に、一族の子女で生活困窮する者を養った。救済施設「延命院」を設け、同族の病患者を収容した。 ◆早川 丈石 江戸時代前期-中期の俳人・早川 丈石(はやかわ-じょうせき、1695-1779)。男性。別号は千載堂、宗順。京都の生まれ。俳人・鈴鹿知石の門下、師没後、剃髪し宗順と改める。京都を中心に貞門系俳諧点者(作品の優劣を判じ、評点を加える人)の系譜をまとめた「誹諧家譜」を編じた。別号に千載堂など。和歌にも通じた。著『ありのすさみ』など。85歳。 墓は浄国寺(下京区)にある。 ◆崇親院 平安時代前期の公卿・藤原良相は、六条の邸宅を「崇親院」と名付け、一族の子女で自ら生計を立てられない者を養った。崇親院は北は松原通のやや南、東は寺町通辺、西は麹屋町通、南は万寿寺通付近に囲まれた地にあった。 邸宅には蓮池があり、それに因み当寺は蓮池寺とも呼ばれた。山号も蓮池山という。 ◆文化財 江戸時代後期、1851年銘の鬼瓦がある。 ◆果ての二十日寺 江戸時代、近世(安土・桃山時代-江戸時代)とも、京都の罪人は、旧12月20日に市中引き回しの後、浄国寺で受戒した。罪人は末期の水を与えられ、その後、六条河原に引かれ処刑されたという。 このため、当寺は、「果(は)ての二十日寺」とも呼ばれていた。 ◆天明の大火 天明の大火(団栗焼け)は、江戸時代後期、1788年旧1月30日早朝、鴨川の東岸、団栗辻子(どんぐりのずし)の民家(宮川町団栗新道角の両替商の空き家)から出火した。火は宮川筋に南下し、さらに折からの強風にあおられ、鴨川を越えて対岸にも飛び火した。 火の手は、洛中の寺町通高辻の永養寺を類焼させた。朝の5-6時頃に本堂破風に燃え移り、南隣の浄国寺に燃え移り、薮の下通(高辻通)を西へ類焼したという。(『花紅葉都咄』)。さらに、北と南へも延焼した。火災は30日(太陰暦のため31日はない)から、旧2月1日、2日の2昼夜にわたって燃え続けた。 ◆墓 江戸時代中期の俳人・早川丈石の墓がある。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都 歴史案内』、『京都大事典』 、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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