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養徳院 〔妙心寺〕 (京都市右京区) Yotoku-in Temple |
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養徳院 | 養徳院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 燈籠 ![]() 十三重塔 ![]() 十三重塔 ![]() 十三重塔 ![]() ![]() 【参照】近くの妙心寺参道 |
妙心寺境内の北東に塔頭・養徳院(ようとくいん)がある。美濃鍋島の石河(いしこ)氏の菩提寺になる。 臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦三尊像。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1583年、石河光重(いしこ-みつしげ)が、父・光延(みつのぶ)の菩提を弔うために創建した。妙心寺67世・功沢宗勲(こうたく-そうくん)を開祖とした。当初は、境内の南西、現在の小方丈の北(微妙殿付近)、雑華院(ざっけいん)の西に位置していた。境内は、現在の塔頭・大雄院、幡桃院(はんとういん)、海福院、雑華院を含む広大なものだった。以後、石河氏の菩提塔頭になる。 その後、境内余地は各塔頭に分与され、次第に縮小する。一宙は雑華院など3か院、1寮舎を、芳澤は瑞松院を中興した。 2世・水庵宗掬(すいあん-そうきく、1533-1612)に継がれる。 1588年、石河光重が法堂南北に繋がる廊下を寄進する。 1589年、現在の堂宇が再建された。 江戸時代、1776年、衰微し、小堂だけが残る。 1842年、円水(えんすい)の時、再興が始まった。 1859年、17年の歳月を経て再建が完成する。 近代、1935年、現在地(瑞松院旧地)に移されている。 ◆功沢宗勲 安土・桃山時代の僧・功沢宗勲(こうたく-そうくん、 ?-?)。詳細不明。男性。父・石河光延、光重の兄。美濃鍋島・乙津寺(おつしんじ)3世になる。妙心寺・養徳院の開祖。 ◆石河光延 室町時代後期の武将・石河光延(いしこ-みつのぶ、?-1568)。詳細不明。男性。子に功沢宗勲、光重。美濃鍋島に住した。斎藤道三に仕える。 美濃鍋島・乙津寺(おつしん-じ)に墓がある。 ◆石河光重 安土・桃山時代の武将・石河光重(いしこ-みつしげ、 ?-?)。詳細不明。男性。父・光延。兄・功沢宗勲。子・石河貞清。豊臣秀吉の重臣、棄丸菩提所を妙心寺にと秀吉に進言した。 ◆水庵宗掬 室町時代後期-江戸時代前期の僧・水庵宗掬(すいあん-そうきく、1522-1612)。詳細不明。男性。心華霊明禅師。美濃鏡島城主・石河光成の二男。功沢宗勲の法嗣になる。養徳院2世、妙心寺73世になった。水庵派。 ◆蘭叔玄秀 安土・桃山時代の僧・蘭叔玄秀(らんしゅく-げんしゅう、?ー1576?)。詳細不明。男性。慧南玄譲の法祖。石河光忠の叔父。妙心寺53世、美濃鍋島・乙津寺住持、妙心寺・大雄院の勧請開祖になる。織田信長の帰依を受けた。著『酒茶論』『蘭叔録』。 ◆仏像 本堂(方丈)の仏間に本尊の「釈迦三尊像」、石河家累代の位牌が安置されている。 ◆建築 「本堂(方丈)」は、移転する以前の材を用いて再建された。須弥檀に牡丹、唐獅子が描かれている。 ◆庭園 枯山水式庭園がある。十三重塔、燈籠が立つ。 ウメ、ツバキなどの植栽がある。 ◆文化財 ◈安土・桃山時代、1576年、妙心寺53世・蘭叔玄秀(らんしゅく-げんしゅう)筆の掛軸「酒茶論(しゅちゃろん)」は、漢文体(2000字)による。上戸の忘憂君(ぼうゆうくん)と下戸で茶を好む滌煩子(じょうはんし)が登場し、中国の故事を引き合いにして酒と茶の徳について論争する。最後に閑人が「酒は酒、茶は茶」として引き分ける。 ◈安土桃山時代-江戸時代初期の絵師・曽我直庵(そが-ちょくあん、?-? )筆「鷹の図」2幅、鉄庵道生賛の山水画、奈良時代の渡来僧・鑑真和上(がんじん、688-763)の伝請来「鉄鉢」。 ◈「石河光延像」。 *普段は非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『妙心寺』、『妙心寺 六百五十年の歩み』『第51回非公開文化財特別公開ガイドブック』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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