大機院〔東福寺〕 (京都市東山区)
Daik-in Temple
大機院 大機院 
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「玉日君御往生霊像」の石標






庫裡

 東福寺境内の北に塔頭・大機院(だいきいん)がある。 
 臨済宗東福寺派。本尊は勢至菩薩。
◆歴史年表 室町時代、1420年、九条満教が創建した。
 1546年、九条稙通が重修し、梅霖守龍(ばいりん-しゅりゅう)を開山とした。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、焼失する。
 江戸時代、1645年、九重道房が旧殿を移し再興した。
◆九条満家 室町時代前期-後期の公卿・九条満家(くじょう-みついえ、1394-1449)。初名は満教(みつのり)、満輔、号は後三縁院。関白・九条経教の3男。九条家で初めて足利将軍家より偏諱を受け、3代将軍・足利義満の「満」の字を与えられた。異母兄・忠基の養子として九条家の第12代当主。1406年、従三位に叙せられる。1418年、関白・左大臣、1419年、従一位、1448年、出家した。56歳。
◆梅霖守龍 室町時代後期の臨済宗の僧・梅霖守龍(ばいりん-しゅりゅう、?-?)。詳細不明。東福寺の僧。1546年、東福寺・大機院の開山になる。1550年、『梅霖守龍周防下向日記』を著す。寺の荘園がある山口・徳地に年貢督促のために赴く途中、備前比々島沖で賊船の襲撃を受け反撃したなどと記されている。
◆九条稙通 室町時代後期-安土・桃山時代の公卿・古典学者・歌人・九条稙通(くじょう-たねみち、1507-1594)。通称は玖山、九条禅閤、一字名は玖、身、法名は行空、恵空。九条尚経(ひさつね)の子。室町幕府10代将軍・足利義稙より偏諱を賜い稙通と名乗る。九条家の第16代当主。1514年、従三位に叙せられる。内大臣、1533年、関白・藤氏長者、1534年、辞任した。1555年、従一位に叙せられた。出家して行空、恵空を名乗る。
 外祖父・三条西実隆より影響を受け、『源氏物語』の注釈書『孟津抄』20巻、紀行文『嵯峨記』などを著す。88歳。
◆九条道房 江戸時代前期の公卿・九条道房(くじょう-みちふさ、1609-1647)。元名は忠象(ただかた)、一字名は旭、号は後浄土寺。九条幸家の次男、母は豊臣完子。藤原氏摂関家九条流の九条家当主。徳川家光の甥にあたる。正室は鶴姫(松平忠直の娘)。1613年、正五位下・左近衛少将、その後、左近衛中将、権中納言権、大納言、右近衛大将、内大臣、左近衛大将、右大臣、左大臣を歴任した。1647年、摂政に就きその直後に亡くなる。39歳。
◆藤原忠通 平安時代後期の公卿・藤原忠通(ふじわら-の-ただみち、1097-1164)。別称は法性寺 (ほっしょうじ) 殿。父は関白・藤原忠実、母は右大臣・源顕房の娘・師子の子。1107年、元服、1110年、従三位、1115年、内大臣。1120年、父・忠実が娘・泰子(高陽院)の入内問題で蟄居になる。1121年-1158年、関白・氏長者になる。第74代・鳥羽天皇、第75代・崇徳天皇、第76代・近衛天皇、第77代・後白河天皇に摂政・関白として務めた。左大臣・太政大臣を経て従一位に至る。1129年、白河法皇没後、鳥羽院政により父・忠実が内覧として復帰し対立した。1150年、父より義絶され、氏長者は異母弟の頼長に奪われた。頼長は養女・藤原多子を近衛天皇の後宮に入れ、忠通は対抗し、藤原伊通の娘・呈子(九条院)を養女として後宮に入れた。1155年、近衛天皇没後の後嗣問題で、崇徳上皇と対立した鳥羽上皇(第74代)に後白河天皇の即位を助言した。これらは、1156年、保元の乱の一因になる。崇徳上皇方に付き、敗れた父の所領を相続、父の流罪を防いだ。1158年、乱後、崇徳上皇方に付いた父の所領を相続、父の流罪を防いだ。法性寺西殿に隠退し、御堂(浄光明院)に丈六の阿弥陀坐像(現在、万寿寺の本尊)を安置した。摂関職を子・基実に譲り、1162年、出家した。 法性寺関白と称された。68歳。
 和歌、漢詩に優れ、能書家であり法性寺流と称された。『金葉集』以下の勅撰集に入集。子孫は近衛家、九条家に分かれ、五摂家になる。和歌を好み、漢詩優れ、書風は法性寺流と称された。
 墓はかつて泉山(せんざん)にあり、1950年に東福寺の九条家墓地に移された。
◆九条良経 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・歌人・九条良経(くじょう-よしつね、1169-1206)。号は中御門殿、後京極殿。関白・兼実の次男、母は藤原季行の娘。1179年、元服した。1185年、従三位。1188年、兄・良通が 急逝し九条家を継いだ。1189年、権中納言、権大納言兼左大将、1195年、内大臣に進む。1196年、源(土御門)通親の策謀により、父・関白兼実が失脚し、良経も籠居した。(建久七年の政変)。1199年、閉門を許されて左大臣になる。1202年、通親の死去に伴い、第83代・土御門天皇の摂政になる。1204年、従一位、太政大臣になった。1206年、急逝した。寝所で刺殺されたともいう。38歳。
 代表的歌人の一人で、後鳥羽院歌壇で活躍した。『花月百首』、『六百番歌合』などを主宰した。和歌所設置(1201)に際して寄人筆頭になる。『新古今和歌集』の撰修に関し、仮名序の作者になる。自撰家集家集『秋篠月清集(月清集)』は「六家集」の一つ、漢詩集『後京極摂政詩集』がある。書道の後京極流の始祖、有職故実も研究した。
◆恵信尼 平安時代後期-鎌倉時代中期の女性・恵信尼(えしんに、1182-1268?)。筑前(ちくせん)。越後介・兵部大輔・三善為教の娘ともいう。1207年、29歳の頃、越後流罪中の親鸞と結婚した。京都だったともいう。1211年、越後で明信を産む。赦免された親鸞と共に、1214年、一家で関東に赴く。上野国から常陸国に移住した。1216年頃、京都に移る。1224年、末女・覚信尼が生まれる。1234年、親鸞の帰京時に恵信尼も帰京したともいう。直接越後に赴いたともいう。1254年以前、越後に下り、覚信尼に下人を譲る。1256年、親鸞は子・善鸞を義絶した。恵信尼は覚信尼に下人の譲状を送り、再び譲状を送る。1261年、病いになる。1268年、越後に没した。87歳?。
 3男3女、小黒女房(こぐろにょうぼう)、善鸞(ぜんらん)、明信(みょうしん)、益方(ますかた)、高野禅尼(こうやぜんに)、覚信尼(かくしんに)を産む。親鸞の妻は恵信尼一人とも複数ともいう。子・善鸞は実子とも、異なるともいう。親鸞の関東からの帰京に際し恵信尼も帰京した、居留したともいう。恵信尼の晩年は国府辺、板倉、とひたのまきにあったともいう。
 1921年、西本願寺の宝物庫から恵信尼の書状「恵信尼消息」 10通(1256-1268)が発見された。晩年の恵信尼が越後より、京都の娘・覚信尼に宛てた書状だった。
◆像 玉日君御往生霊像(玉日ノ像)を安置する。江戸時代、九条道房の旧殿(台所とも)を当院に移築して再興した際に、同家にあった像も遷し、以後、内仏として安置している。
◆墓 公卿・藤原忠通、公卿・九条良経、公卿・九条稙通らの墓がある。


*非公開
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『旧版 古寺巡礼京都 18 東福寺』、『京都の禅寺散歩』、『京都・山城寺院神社大事典』、『日本の名僧』、『平安京散策』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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