西岸寺 (京都市伏見区深草)
Saigan-ji Temple
西岸寺 西岸寺
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「元法性寺小御堂西岸寺  親鸞聖人御旧蹟  玉日姫君御廟所 九条関白兼実公遺蹟」の石標が立つ。


本堂
 深草の西岸寺(さいがんじ)は、法性寺小御堂(こみどう)西岸寺と呼ばれる。境内に親鸞の妻とされる玉日姫の墓が伝えられている。 
 浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来像を安置する。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、公卿・藤原忠通(1097-1164)は旧地に法性寺小御堂を建立した。
 その子で公卿・九条兼実(1149-1207)も引き続き旧地に住み、花園御殿と称した。
 兼実の娘・玉日姫(たまひひめ)は親鸞(1173-1263)と婚姻する。
 後白河法皇(第77代、1127-1192)も度々寺を訪れ、後にその御製(和歌、詩文)に因み西岸寺と号した。
 鎌倉時代、1207年、旧地より親鸞は越後へ流罪となったという。残された玉日姫は小堂を守り、旧地で没したという。また、同年、九条兼実の臣・田村采女正光隆が親鸞に帰依し、有阿弥と改めた。兼実ゆかりの小御堂を寄進され、深草山西麓に創建したともいう。また、玉日姫が親鸞の流罪後、旧地に残った。屋敷を有阿弥に譲り創建させたともいう。
 安土・桃山時代、文禄年間(1592-1596)、現在地に移転した。
 現代、2012年、境内にある塚の江戸時代後期の骨壷より人骨が発見される。親鸞の妻とされる玉日姫のものと推定されている。
◆藤原忠通  平安時代後期の公卿・藤原忠通(ふじわら の ただみち、1097-1164)。公卿・藤原忠実の子。法性寺殿とも呼ばれた。罷免された父に代わり、関白、摂政、太政大臣を歴任した。鳥羽院政で復権した父と争い、1156年、皇位を争う保元の乱の一因となった。
 詩歌、書に優れ書は法性寺流と称された。
◆九条兼実  平安時代後期-鎌倉時代の公卿・九条兼実(くじょう かねざね、1149-1207)。公卿・藤原忠通の子。九条家の祖。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれた。
 右大臣、摂政、氏長者、太政大臣、関白を歴任し、源頼朝の征夷大将軍宣下を執る。1196年、源通親により失脚、法然に帰依して出家した。
◆恵信尼 平安時代-鎌倉時代の女性・恵信尼(えしんに、1182-1268?)。詳細不明。越後介・兵部大輔・三善為教の娘ともいう。中級貴族の娘、越後の豪族の娘ともいう。親鸞と結婚したのは、京都とも、越後でともいう。1211年、越後で明信を生み、赦免された親鸞と共に、1214年、一家で関東に赴く。1224年末女・覚信尼が生まれる。1234年、親鸞の帰京時に恵信尼も帰京した、直接越後に赴いたともいう。1254年以前、越後に下り、覚信尼に下人を譲る。1256年、親鸞は子・善鸞を義絶した。恵信尼は覚信尼に下人の譲状を送り、再び譲状を送る。1261年、病いになる。
 恵信尼については諸説ある。親鸞の妻は恵信尼一人とも複数ともいう。子・善鸞は実子とも異母ともいう。親鸞の関東からの帰京に際し恵信尼も帰京した、居留したともいう。恵信尼の晩年は国府辺、板倉、とひたのまきにあったともいう。なお、江戸時代、恵信尼と玉日姫は同一人物との伝承があった。恵信尼は玉日姫の侍女ともされる。1921年、西本願寺の宝物庫から恵信尼の書状10通(1256-1268)が発見された。恵信尼が越後より京都の覚信尼に宛てた書状だった。
◆仏像 本堂に本尊の「阿弥陀如来像」がある。
 親鸞自作という「親鸞草鞋懸(わらじかけ)立像」を安置している。
 玉日姫の作という「親鸞越前有乳山越の像」がある。
◆文化財 江戸時代後期作とみられる「九相図(くそうず)」5幅1組は、美女ではなく男女の遺体が描かれている。死後、遺骸が腐敗し白骨化するまでを描くことで、人の世の無常観を表している。
◆墓 境内に、玉日姫とされる墓(廟所)がある。高さは3.5m。2012年、江戸時代後期の土製骨壷と、人骨が発掘された。境内には、玉日姫の墓の改修を行ったという石碑が立つ。玉日姫と九条兼実の木像がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『日本の名僧』『京都大事典』


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本堂

玉日姫君御廟所

玉日姫君御廟所

玉日姫君御廟所

親鸞像
 西岸寺 〒612-0889 京都市伏見区深草直違橋2丁目438-1  075-641-5501
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