龍泉庵 〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Ryusen-an Temple
龍泉庵  龍泉庵
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玄関


玄関







「花園太上法皇仙洞之遺蹟」の石標






鐘楼

庫裏


庫裏



庫裏





坪庭
 妙心寺境内の南に龍泉庵(りゅうせんあん)がある。
 臨済宗妙心寺派。四派四本庵の一つ。
◆歴史年表 室町時代、1481年、六祖・雪江宗深(せっこう そうしん)は、景川宗隆(けいせん そうりゅう)に対して、境内の15丈四方の敷地(花園院御所跡)を付与した。開山祖塔を守るためであり、法幢を立て武将・細川政元が建立した。小庵は「龍泉庵」と名付けられた。景川の退居庵になる。
 1500年、宗隆没後、塔が立てられ「大亀塔宗」と呼ばれた。特芳禅傑(とくほうぜんけつ)筆の扁額を掲げる。
 景堂玄訥(けいどう げんたつ、?-1542)は、微笑庵の建物を移して整備したという。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、嶺南祟六(れいなん すうろく、1583-1643)により中興された。
 江戸時代、寛永年間(1624-1644)、鐘楼、表門が建てられる。
 1653年、書院が建つ。
 1664年、表門が建てられた。
 1796年、1797年とも、庫裏が建てられた。
 1848年、方丈が建てられる。
 近代、1878年、塔頭の盛岳院、春浦院、成徳院(もと周桂庵)、普明院を合併する。
 1881年、春浦院は復する。
 現代、1999年、日本画家・由里本出が障壁画などを完成させる。
◆景川宗隆 室町時代の臨済宗の僧・景川宗隆 (けいせん そうりゅう、1425-1500)。伊勢の生まれ。雲谷玄祥(うんこく げんしょう)、義天玄詔(ぎてんげんしょう)、桃隠玄朔(とういん げんさく)らに師事した。伊勢・大樹寺の桃隠、竜安寺・雪江宗深(せっこう そうしん)の法を嗣ぐ。大徳寺、妙心寺、竜安寺、犬山・瑞泉寺、丹波・竜興寺の住持、大和・興雲寺、伊勢・瑞応寺、妙心寺大心院の開山、大心院で亡くなる。諡号は本如実性禅師。法嗣に春江紹蓓(しゅんこう そうばい)、柏庭宗松など。
 「禅は景川」といわれ、「後御堂法坂 雪霜十六年」と竜安寺に日参した修業ぶりを讃えられた。妙心寺開山堂東、竜安寺に向かう道途中に地蔵堂があった。
◆細川政元 室町時代の武将・細川政元(ほそかわ まさもと、1466-1507)。勝元の子。室町幕府の三管領の一つ、細川家の嫡流・京兆家当主。摂津、丹波、讃岐、土佐の守護。1482年、摂津国人茨木氏を討つ。1486年、管領になり、亡くなるまで在任した。1488年、京都で土一揆を鎮圧した。1493年、将軍・足利義材(義稙)と畠山政長を討つ。新将軍に足利義澄を擁したが、義材は抗した。1504年、内衆薬師寺元一の反乱を鎮圧する。だが、養子・澄之(関白・九条政基の子)の擁立を図る内衆香西元長らに暗殺された。
◆景堂玄訥
 室町時代の僧・景堂玄訥(げいどう げんたつ、?-1542)。妙心寺10世・景川宗隆(本如実性禅師)の法を嗣ぐ。微笑庵を移し竜泉(りょうせん)庵を建立したともいう。
◆長谷川等伯 安土・桃山時代-江戸時代の画家・長谷川等伯(はせがわ とうはく、1539-1610)。長谷川派の祖。父は能登畠山家家臣・奥村文之丞宗道。染め物屋を営む長谷川宗清の養子になる。義父から絵を教わる。雪舟門弟・等春の弟子・宗清に学び、1564年、信春(しんしゅん)と称し、熱心な法華信徒として仏画「十二天像」を描く。1571年、養父、養母が亡くなり、本法寺を頼り妻子と共に上洛した。狩野永徳に入門するが後に出る。千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結ぶ。大徳寺塔頭・三玄院事件により世に認められ、長谷川派は狩野派に拮抗した。1579年、妻を失う。1589年頃、大徳寺の牧谿(もっけい)画と出遭う。1590年、京都所司代・前田玄以は、仙洞御所対屋障壁画を等伯に描かせようとする。だが、永徳は勧修寺晴豊によりこれを覆した。1590年、永徳は急逝する。1591年、等伯は秀吉が愛息を弔うために建てた祥雲寺障壁画を手掛け、長谷川派を確立した。1599年、亡き子・久蔵菩提のために「仏涅槃図」を完成させた。「自雪舟五代」と署し、雪舟画系であるとした。1604年、法橋、1605年、法眼に叙される。1610年、家康に招かれ江戸に着き亡くなる。
 狩野派とともに、南宋の牧谿(もっけい)の絵に多大な影響を受けた。水墨画の最高傑作といわれる1593年頃の「松林図屏風」がある。
◆由里本出 近現代の日本画家・由里本出(ゆりもと いずる、1939-)。京都市生まれ。1962年、金沢美術工芸大学日本画科卒業、堂本印象に師事。風景画、北国の海、大地などを描く。1982年、第14回日展特選、1988年、第20回日展特選。日展会員。
◆四派四本庵 室町時代、塔頭の龍泉庵(1481)、東海庵(1484)に加え、聖澤院(1523)、霊雲院(1526)が創建された。
 雪江宗深(せっこう そうしん)の法嗣から、四派の景川宗隆(けいせん そうりゅう、龍泉派)、悟渓宗頓(ごけい そうとん、東海派)、特芳禅傑(とくほう ぜんけつ、霊雲派)、東陽英朝(とうよう えいちょう、聖澤派)が出た。四本庵はそれぞれ、龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院を拠点にした。これにより、「四派四本庵(しはしほんあん)」による運営体制が確立した。この四派により、一山の全権が掌握され、住持も決定された。
 師・雪江は4人を評し、「禅は景川、徳(福)は悟渓、寿(頌)は特芳、才は東陽」とした。
◆建築 景堂玄訥(けいどう げんたつ)は、微笑庵の建物を移して整備したという。
 ◈ 「表門」は、江戸時代、1664年、寛永年間(1624-1644)の建立による。一間一戸、薬医門、切妻造、本瓦葺。 
 ◈ 「玄関」は、入母屋造、軒唐破風付。
 ◈ 「方丈(客殿)」は、江戸時代、1848年に建てられた。山内最大の建物になる。南面し、六間取方丈形式、中央の室中(桁行4間、梁行3間半)、その奥に仏間、室中左右に脇室、それぞれの側面に入側縁、正面に広縁を廻している。昭堂形式の仏間、中央の亨堂(きょうどう)に開山を安置する。両脇に仏壇がある。南面の三室は折り上げ天井を共有し、室境に竹の節欄間がある。桁行25.99m、梁行14.9m。入母屋造。
 ◈ 「書院」は、江戸時代、1653年の建立による。6室あり、東北の主座敷に床と棚、付書院がある。桁行13.8m、梁行7m。入母屋造、妻入、桟瓦葺。
 ◈ 「鐘楼」は、江戸時代、寛永年間(1624-1644に)建立された。1間1間。袴腰、切妻造、本瓦葺。
 ◈ 「庫裡」は、江戸時代、1796年(1797年とも)に建立された。桁行13m、梁行19.1m。切妻造、妻入、本瓦葺。
◆文化財 ◈ 紙本墨画「枯木猿猴図(こぼくえんこうず)」双幅(重文)(各155×115㎝)は、安土・桃山時代、16世紀の作になる。長谷川等伯筆による。
 傾斜した松の枝に親子の手長猿がぶら下がる。父猿は斜めの枝に片手だけを預けている。等伯は南宋末-元初の禅僧・画家・牧谿(もっけい)に影響を受けた。かつては六曲一双あり、後に掛幅に改装された。加賀藩主・前田利長(1562-1614)遺愛という。枕子屏風として寝室に飾られていた。だが、夜な夜な手長猿が利長の眠りを妨げたという。睡眠中に猿は手を伸ばし、利永の髪を掴もうとした。このため、利長は猿の手を斬り落としたという。「腕切りの猿(腕切猿)」と呼ばれた。その後、寺に預けられたという。京都国立博物館寄託。
 ◈ 安土・桃山時代の作者不詳「達磨像」。
 ◈ 「細川勝元書状」、雪江宗深筆「敷地付属状」、特芳禅傑筆「禮大亀塔偈」、悟渓宗頓筆「棹景川法兄偈」、景川宗隆筆「遺偈」「高安道号」、頂相の「景川禅師像」「柏庭禅師像」。
◆障壁画など 現代、1999年、方丈に日本画家・由里本出(1939-)の「霊峰四季之間」「種々東漸之間」「水到渠成之間」、方丈の北に「樹下寂静之間」「黎明開悟之間」がある。 杉戸絵、玄関の「昇龍」なども含め72面がある。
◆庭園 方丈南に枯山水式庭園がある。白砂に苔、七五三の石が組まれている。梅、楓の植栽があり、塀外の樹林も借景になる。
 坪庭、露地がある。 


*普段は非公開、建物、室内の写真は禁止
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『妙心寺』『妙心寺六百五十年の歩み』『別冊太陽 長谷川等伯』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都大事典』『京都で日本美術をみる』『週刊 日本の美をめぐる 金と墨の 長谷川等伯』


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方丈南の庭

方丈南の庭

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書院、露地庭

坪庭

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龍泉庵 〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町64  
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