西光寺 (京都市右京区) 
Saiko-ji Temple
西光寺 西光寺 
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山門


山門


山門






山門


山門

 右京区太秦に尼寺の西光寺(さいこうじ)はある。浄土宗の開祖・法然の遺骸が一時、安置されたといわれている。 
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来像。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 鎌倉時代、この地には、僧・来迎坊円空の住坊があったともいう。
 1227年、円空は西光寺を創建したともいう。幸阿が現在地に開創したともいう。同年、嘉禄の法難で、比叡山衆徒が法然の墓を破却した。衆徒が、遺骸を鴨川に流すと知った高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、法然の遺骸を嵯峨清凉寺(二尊院とも)に一度移した。さらに、太秦・広隆寺の円空のもとへ移される。円空は、翌1228年までの7カ月間、法然の遺骸を護ったという。
 その後、廃絶する。
 江戸時代、文化年間(1804-1818)、再興された。
◆来迎房円空 平安時代後期-鎌倉時代前期の僧・来迎房円空(らいげいぼう-えんくう、 ?-?)。詳細不明。法然(1133-1212)の弟子。太秦広隆寺にあり、房号は来迎房という。念仏信仰者だったという。法然の遺体を荼毘に付す際に関わったという。1227年、西光寺を創建したという。
◆法然 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。諱は源空、勅諡は円光大師、明照大師、通称は黒谷上人、吉水上人、幼名は勢至丸。美作国(岡山県)に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事した。1147年、皇円の下で出家受戒する。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠し、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り、黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じ、ひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場になる。1186年/1189年、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)になり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪になる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住む。1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。80歳。
 法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとする。既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆仏像 本尊「阿弥陀如来坐像」(95㎝)(重文)を安置する。平安時代初期の作になる。結跏趺坐し、通肩の衣。定印を結ぶ阿弥陀像としては最古例になる。
 台座背面の銘によると、かつて法然の念持仏だったという。鎌倉時代、1233年に来迎坊円空に与えたという。鳥仏師作ともいう。
 円頭光、台座(宣字裳懸座 [せんじもかけざ] )は後補による。木造、寄木造、漆箔、玉眼入。
◆法然の墓 鎌倉時代、1212年に法然は大谷の禅堂・禅房(現在の知恩院勢至堂付近)で亡くなる。遺骸は当初、禅房東の崖上(現在の御廟)に葬られ、墓堂(現在の知恩院法然廟)が建てられた。
 1227年6月の嘉禄の法難では、比叡山衆徒が法然の墓を破却し、遺骸を鴨川に流すと知った高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、6月22日に遺骸を嵯峨清凉寺(奥嵯峨の二尊院とも)に一度移した。さらに、28日、太秦広隆寺の来迎房円空のもとへ移された。これらの動きに際して、帰依した関東御家人、宇都宮頼綱、千葉入道法阿らが、郎党と共に遺骸の警護に当たった。
 翌1228年1月25日、遺骸は西山粟生(あお、現在の光明寺)の幸阿弥陀仏のもとへ移され、ここで荼毘に付されたという。遺骨は弟子たちがそれぞれ分かち持ったという。1234年、法然の弟子・源智は、現在地、大谷の地に知恩教院大谷寺(後の知恩院)を建立し、法然の遺骨を廟堂に安置した。
◆年間行事 念仏行脚(毎年1月24日夜に、嘉禄の法難に因み、西光寺から長岡京市の光明寺までの念仏行脚が行なわれている。)(1月24日)。


*要事前連絡
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大知典』、案内板、『京都の仏像』、『昭和京都名所図会 4 洛西』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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西光寺  〒616-8167 京都市右京区太秦多藪町30  075-861-0985
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