|
|
雙栗神社 (京都府久御山町) Saguri-jinja Shrine |
|
雙栗神社 | 雙栗神社 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 拝所、透し垣 ![]() 拝所、本殿 ![]() 拝所 ![]() ![]() ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿、脇障子 ![]() ![]() クスノキ、神木 ![]() 稲荷社 ![]() 「雙栗神水」の水盤 ![]() 「御厨池旧蹟」とある。 ![]() 境内の社叢林 |
久御山町佐山双栗に雙栗神社(さぐり-じんじゃ)がある。双栗神社とも記され、椏本(あてもと)八幡宮とも呼ばれた。境内は広く、鎮守の森が広がりクスノキなどの巨木が茂る。 祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、椏本八幡宮(あてもとはちまんぐう)、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、比大神(ひめおおかみ)、仁徳天皇(にんとくてんのう)を祀る。 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」「雙栗神社三座」に比定されている。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、859年、従五位下の神位を授けられる。(『三代実録』)。延喜の制には小社に列せられた。 927年、「延喜式神名帳」にも山城国久世郡の「雙栗神社三座」と記されている。 1125年、大きな椏(あて)の木の根元に八幡宮を勧請したことに始まるともいう。(『椏本八幡宮縁起』、江戸時代、1676年奥書)。 1152年、如一上人は八幡宮神輿の御正体を造り、以来、御旅所(宇治田原町三郷山、久御山町飛地)への御幸が始まったという。 第78代・二条天皇(在位1158-1165)の時、勅願所の号を与えられる。 1162年、当宮に勅使が立てられ、 勲一等を受ける。神田を賜い、椏本(あてもと)一品八幡大菩薩と号し、橘氏が神司と定められたという。(「椏本八幡宮縁起」)。本殿が建立されたという。 中世(鎌倉時代-室町時代)-近世(安土・桃山時代-江戸時代)、石清水八幡宮の影響下に入り、八幡宮領になる。 室町時代、1494年、現在の本殿が葺き替えられたという。(社伝) 1560年、足利義輝は禁制の下知状を下付する。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、水害により流出した市田・珠城(たまき)神社の祭神・活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと)、和気清麻呂を合祀する。 江戸時代、椏本八幡宮と呼ばれた。 1630年、淀城城主・松平定綱より神田、叢林を寄進される。(「記録古書改」・阪田四郎家文書) 1702年、第113代・東山天皇より勅額を贈られる。(「記録古書改」・阪田四郎家文書) 近代、1882年、雙栗神社と旧号に復される。 1868年まで、五か寺の神宮寺が存在した。 ◆社名 雙栗について、羽栗、殖栗両郷に祀られていたため名付けられたともいう。(「久世郡神社明細帳」)。古代豪族・羽栗氏が祖神を祀った氏神社であるともいう。(「佐山村郷土誌」)。羽栗が雙栗(双栗)に転訛したともいう。 ◆三郷山 当社の南東、宇治田原町に三郷(さんごう)山があり、古くより当社と深い関わりがあるとみられている。現在もこの地は、久御山町の飛地になっている。 平安時代後期、1152年、如一上人は八幡宮神輿の御正体を造り、以来、御旅所(遥拝所、宇治田原町三郷山)への御幸が始まったとされている。(「椏本八幡宮縁起」)。祭礼は三郷祭と呼ばれた。また、宇治田原町岩山、三郷山近くに雙(双)栗天神社(さぐりてん-じんしゃ)といわれる社が祀られている。御来栖(みくるす)神社はいまも存在する。かつて雙(双)栗寺という名の寺も存在した。 古く、この宇治田原(旧雙栗ノ荘)の岩山は神の降臨地とされた。この地より、佐山の雙栗神社に神霊が勧請されたともいう。その神幸道に、佐古、佐山、林などが当たり、神宮寺も存在したともみられる。 中世以降、当社が椏本八幡宮と呼ばれたのは、石清水八幡宮の影響下に入り、それに伴い社名が八幡宮と改められ、祭神も合祀されたとみられている。 ◆神宮寺 近代以前まで、5つの神宮寺があった。佐山に安楽寺、西方寺、浄福寺、山福寺(三福寺)、久御山町林に薬蓮寺だった。近代に入り、廃仏毀釈により廃絶した。各寺の仏像は佐古、林などの他寺に遷された。 ◈薬蓮寺の阿弥陀如来坐像2体は、近代、1868年に西林寺に遷され、その後、京都国立博物館が所蔵している。定朝様の一体(152.5㎝)は、11世紀中期作、結跏趺坐、定印、木造、漆箔。来迎印の一体(140.2㎝)は、11世紀末-12世紀作で、結跏趺坐、来迎印、木造、漆箔。さらに、同様に1871年に西林寺に遷されたという釈迦誕生仏立像(114.4㎝)の詳細については不明。右手を60度に内に曲げ、頭の横に掲げている。平安時代、11世紀後半作、銅造。 ◈浄福寺の観音堂に安置されていた「聖観音(しょうかんのん)菩薩立像」は、平安時代後期(10世紀後半-11世紀前半)作とみられる。江戸時代前期、明暦年間(1655-1658)に、観音堂とともに浄安寺に遷された。安阿弥(快慶)作ともいう。 ◈鎌倉時代中期、1243年に、興正菩薩叡尊(1201-1290)は三福寺(山福寺)に神牛石を安置したともいう。その後、神牛石神社に御神体として祀られた。 ◆建築 社殿は南面して建てられている。現在は、割拝殿、本殿、社務所しか残されていない。 ◈本殿(重文)は、三間社流造、正面に向拝付、檜皮葺。蟇股に「花と鳥」、「紅葉と鹿」、脇障子の上部に「栗鼠と葡萄」の彫刻を施す。室町時代後期、1494年頃に建立されたという。同年と、江戸時代前期、1719年、江戸時代後期、1862年、近代、1913年に修理されている。現代、1980年-1981年に彩色の塗替えと屋根の葺替が行われた。 ◆樹木 ◈クスノキは境内に複数本植えられている。ご神木のクスノキの巨木は、本殿北にあり、根元に稲荷社の祠が祀られている。現代、1991年に、京都の自然200選(植物部門)に選定された。 樹高30m、根元の回り9.8m、目通りの幹回り5.35m、樹齢400-500年。 ◈ヤブツバキと呼ばれる品種が多く、本殿の西側・境内北側に叢林を形成し数100本はある。 本殿裏の大クスノキ横にあるツバキは、濃紫色で品種は「黒椿」といわれている。 幹回り20㎝、樹高は3m。 ◆お粥炊 「お粥炊の神事」(1月15日)は、午前零時より明け方まで続く。青竹の管8本に名札を付けた紐を括る。名札にはそれぞれ、米(早生、中生、晩生)、綿、大豆、芋、黍(きび)、梨と書かれている。大釜に米3合、小豆3合の割合で粥を入れ、竹管を中に入れ、札は釜より出す。神事の後、炊き上げる。管を包丁で割り、竹管内の粥の詰まり具合により、その年の穀物の豊凶を占う。竹管一杯に粥が入っていれば十分(じゅうぶ)といい、豊作になるとされた。結果をお神差表に記し、かつてはこの占いに基づき作物の作付けを行っていた。 ◆年間行事 元旦祭(1月1日)、粥占(御神差)(1月15日)、椿の開花(2月-4月)、八朔祭(8月31日)、例祭(秋祭り)(10月8日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『久御山町史 第一巻』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 下』、『久御山町の今昔』、ウェブサイト「久御山町」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|