浄安寺 (京都府久御山町)  
Joan-ji Temple
浄安寺  浄安寺 
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「観世音尊像」の石標




山門


地蔵堂


地蔵堂、地蔵尊




本堂


本堂、「国穏山」の扁額


鐘楼


鐘楼、梵鐘




観音堂


観音堂、城南近在三十三所観音霊場の札所一覧


観音堂、聖観音菩薩立像、説明板より


庫裡


庭園







十三重塔


写経塔


 久御山町佐山に浄安寺(じょうあん-じ)はある。山号院号は国隠山(こくおん-ざん)快楽院(けらく-いん)という。秘仏の聖観音(しょうかんのん)菩薩立像、「洛南の椿寺」としても知られている。
 浄土宗知恩院派、阿弥陀如来を安置している。
◆歴史年表 平安時代、1053年、仁海により浄安寺は創建された。
 1124年、椏本(あてもと)八幡宮(雙栗[さぐり]神社)の神宮寺になる。
 鎌倉時代、1331年、第96代・後醍醐天皇の時、勅願寺になった。
 その後、衰退する。
 室町時代、年代不詳、第106代・正親町天皇(在位1557-1586)により寺号「浄安寺」と勅額を賜ったという。
 1567年、浄安寺の地は除地になっている。(「本末御改帳」・浄安寺文書)
 安土・桃山時代、1573年、宇治平等院の玄誉徹公(げんよ-てつこう)により中興された。
 江戸時代、1630年、淀城城主・松平定綱により、寺領・竹林の朱印状を下賜された。
 明暦年間(1655-1658)、浄福寺の観音堂・山林が浄安寺に譲られたという。(「記録古書改」、1802)。堂の修理は浄安寺が行うことになった。観音菩薩立像も遷されている。観音堂は、城南近在三十三所観音霊場18番札所だった。
 1661年、浄安寺の地は除地になっている。(「本末御改帳」・浄安寺文書)
 現代、1977年、安田耕之助の別邸より、茶室「聞名庵(もんみょう-あん)」が移された。
 1985年、開山400年記念に現在の建物が改築されている。
◆仁海 平安時代後期の僧・仁海(にんがい、?-?)。詳細不明。1053年、久御山佐山に浄福寺(浄安寺の前身)を創建した。
◆快慶 平安時代後期-鎌倉時代前期の仏師・快慶(かいけい、?-?)。詳細不明。男性。号は安阿弥(あんなみ)、法名は安阿弥陀仏。署名は仏師快慶、丹波講師(たんばこうじ)、越後法橋、巧匠安阿弥陀仏、法橋快慶、法眼快慶など。運慶の父・康慶の弟子、運慶の門弟ともいう。1183年、運慶が発願した法華経の結縁(けちえん)者の一人になる。1189年、 興福寺旧蔵・弥勒菩薩像(ボストン美術館蔵)、建久年間 (1190-1199) 、 東大寺復興の造仏に運慶を助けた。1192年/1194年頃、重源の建立した兵庫浄土寺・阿弥陀三尊像、1201年、東大寺・僧形八幡神像、1202年、東大寺俊乗堂・阿弥陀如来像、建仁年間(1201-1204)、東大寺公慶堂・地蔵菩薩像、奈良・文殊院・文殊五尊像(?)、1203年、運慶らと合作の代表作である東大寺南大門・金剛力士像などがある。1236年まで造仏した。
 慶派仏師であり、運慶と並び鎌倉時代を代表した。30点近くの作品、現存遺作は20点ある。作風は藤原様式、宋の新様式を取り入れた。写実的、優美で安阿弥様式と呼ばれ、後世まで影響を与えた。東大寺中興の重源(ちょうげん)に師事し、阿弥陀信仰し熱心な浄土教信者だった。
◆玄誉徹公 安土・桃山時代の僧・玄誉徹公(げんよ-てつこう、?-?)。詳細不明。久我家の生まれという。宇治平等院に住した。1573年、浄安寺を再興した。
 常に念仏弘通に勤めたという。
◆安田耕之助 近代の官僚・政治家・安田耕之助(やすだ-こうのすけ、1883-1944)。京都市の生まれ。父・安田平四郎の2男。1908年、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1909年、文官高等試験行政科試験に合格した。大蔵省に入省し、税務監督属、司税官、税務監督局事務官、税関事務官、大阪税務監督官、大蔵事務官兼朝鮮総督府事務官を歴任した。1925年-1927年、第8代・京都市長になる。中央卸売市場の設立・京都染織見本市の開催などに取り組む。1930年、第17回衆議院議員総選挙に、立憲民政党から出馬し当選した。1942年-1944年、京都市会議長を務めた。61歳。
仏像 ◈秘仏「聖観音(しょう-かんのん)菩薩立像」(142㎝)(久御山町指定有形文化財)は、観音堂に安置されている。
 平安時代後期(10世紀後半-11世紀前半)作とみられる。雙栗(さぐり)神社の神宮寺・浄福寺の旧仏という。江戸時代前期、明暦年間(1655-1658)に、浄福寺の観音堂とともに浄安寺に遷された。安阿弥(快慶)作と記されている。(『椏本八幡宮縁起』、1676、『山州名跡志』、1711)。詳細は不明。下框(しもかまち)天板の裏面には、江戸時代前期、「寛文十三年(1673年)二月十八日」付けの再興の墨書銘が入る。
 等身像で頭部は小さく童顔であり、体躯は長身で柔らく丸味を帯びる。腰を左方にひき、右膝はゆるめて立つ。左手は前に差し出し、右手は垂れて与願印を表している。体の固太りの肉身、身のこなしなどから、仏師・康尚(?-?、定朝の父)の頃に、古像をもとに新たに造仏されたとみられている。江戸時代には、像は城南近在三十三所観音霊場18番札所として崇敬された。
 木造、ケヤキ材、一木彫成(一木造)、彫眼、漆、一部後補。
 ◈「地蔵菩薩立像」は、観音堂脇壇に安置されている。平安時代後期/鎌倉時代の作であり、等身大になる。
◆建築 現代、1985年、開山400年記念に現在の建物が改築された。
 表門、地蔵堂、鐘楼、本堂、観音堂、庫裡、茶室などが建つ。
 ◈「観音堂」は、江戸時代前期、明暦年間(1655-1658)に、浄福寺の観音堂が移されている。(「記録古書改」、1802)。
◆茶室 茶室「聞名庵(もんみょう-あん)」は、庫裡に隣接して建つ。現代、1977年に第8代・京都市長・安田耕之助(やすだ-こうのすけ、1883-1944)の別邸内より移築された。
 1階に茶室(6畳)、水屋(3畳)、2階に茶室(4畳半)、水屋(2畳)がある。材は主に椏(あて、木のまた)が用いられ、床柱、床框、違い棚などに見られる。
 椏丸太普請、2階建、数寄屋造。
◆浄福寺 浄安寺の前身になる浄福寺(じょうふく-じ)は、鎌倉時代中期、弘長年間(1261-1264)に創建されたともいう。(『椏本八幡宮縁起』)。
 また、平安時代前期、869年に大和大安寺の行散によるともいう。(「興福寺官務牒疏」、1441)
◆ツバキ 「洛南の椿寺」として知られている。稀少品も多く、品種は170/200/230種を数える。「浄安寺椿」は、江戸時代後期から伝わる固有種であり、門外不出の一品といわれた。極淡いピンクの八重であり、極小輪の花を咲かせる。
 ほか「胡蝶侘助(こちょう-わびすけ)」、「日光」、「明日香」、「王昭君」、「京の誉」、ヤブツバキなどがある。 開花は12月-5月頃になる。
 例年、椿展(2月中旬-4月中旬)が催される。本堂に全国の陶器の里から集められた一輪挿しに、開花順に副木をあしらい、ツバキの銘花50/30種ほどが活けられる。
◆庭園 庭園がある。
◆年間行事 椿展(2月中旬-4月中旬)、月見会 (9月上旬、十五夜に最も近い日曜日)、浄安寺(12月31日)。


年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都府の地名』、久御山町郷土史会の説明板、久御山町教育委員会 の説明板、『昭和京都名所図会 7 南山城』、「くみやま文化・歴史ガイド 久御山」、ウェブサイト「久御山町」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 浄安寺 〒613-0034 京都府久世郡久御山町佐山双置(さやま-そち)80 phone number0774-41-6036
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