円山応挙宅跡 (京都市下京区)  
The ruins of residence of Maruyama, Okyo
円山応挙宅跡 円山応挙宅跡
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「円山応挙宅址」の石標
 四条通堺町東入ル南側に「円山応挙宅址(まるやま-おうきょ-たくあと)」の石標が立てられている。
 この付近に、江戸時代後期の画家・円山応挙の居宅があったという。
◆歴史年表 
江戸時代、1775年、円山応挙は、京都四条麩屋町西入ルに住んだという。また、応挙は若い頃に、四条道場金蓮寺(こんれんじ)の境内に借家住まいをしていた。その後、現在地付近に居を構えたともいう。(駒札)
 近代、1917年 、京都市教育会により石標が立てられている。
◆円山応挙
 江戸時代中期-後期の画家・円山応挙(まるやま-おうきょ、1733-1795)。字は僊斎、仲選、号は一嘯、夏雲、仙嶺、通称は主水。丹波国桑田郡穴太(あのう)村(亀岡市)の農業・丸山藤左衛門の次男。1740年頃、近くの金剛寺に小僧として入る。1747年、15歳で呉服屋「岩城」、後に京都四条通柳馬場の高級玩具商「尾張屋中島勘兵衛」に入る。13-14歳で上京したともいう。17歳頃(15歳とも)で上京し、狩野派・石田幽汀に絵を学んだともいう。1759年、西洋渡来の覗き絵(浮絵)を制作する。遠近法を取り入れた風景画のからくり「眼鏡絵」の制作に携わる。1763年頃、宝鏡寺の蓮池院尼公を知る。1765年頃、円満院門主祐常と親交した。1766年頃、「応挙」と改名し、「応挙」の落款を用いる。中国宋末から 元初の画家・銭舜挙に応ずるの意という。1773年頃、「雲龍図」(東寺観智院旧蔵)を描く。1775年、「平安人物志」に画家部第一位で記載され、京都四条麩屋町西入ルに住んだという。1786年、紀州無量寺の障壁画を描く。1787年、一門とともに大乗寺障壁画(兵庫県香住町)を描く。(第一期)。1790年、禁裏造営で一門により障壁画を制作した。 1795年、一門とともに大乗寺障壁画を描く。(第二期)。
 土佐派、琳派、南蘋派、西洋伝来の「のぞきからくり」により遠近法を学ぶ。狩野派の衰微に代わり、写生画の技法を取り入れ人気を博した。上田秋成、三井家の引き立てもあり、呉春、長沢蘆雪など多くの弟子も得た。豪商三井家の支援を受ける。代表作は、「雪松図」(国宝、1765)、「竹図屏風」(重文、1776)など、祇園祭月鉾の「草花図」、保昌山の「胴幕図」などもある。豪商三井家の支援を受ける。代表作は、「雪松図」(国宝、1765)、「竹図屏風」(重文、1776)など、祇園祭月鉾の「草花図」、保昌山の「胴幕図」などもある。弟子に呉春、長沢蘆雪など多い。63歳。
 悟真寺(四条大宮西入ル、後に右京区に移転)に葬られる。
◆居宅地 円山応挙は、江戸時代、1775年、「平安人物志」に画家部第一位で記載され、京都四条麩屋町西入ルに住んでいたという。現在の石標の東3筋目に麩屋町通はある。
 また、石標の立つ現在地付近、下京区立売中之町四条通堺町東入ルに住んだという。応挙は、若い頃に四条道場金蓮寺(こんれんじ)の境内に借家住まいをしていた。このため後に、この付近に居を構えたともいう。(駒札)。
 石標の東、下京区四条通寺町西入ル奈良物町付近に住んだともいう。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札、『京都大事典』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 円山応挙宅跡 〒600-8006 京都市下京区立売中之町 ,四条通堺町東入ル南側
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