長福寺 (京都市西京区)
Chofuku-ji Temple
長福寺 長福寺 
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 下津林の長福寺(ちょうふくじ)は、山号を念仏山(念佛山、ねんぶつざん)という。かつて五社神社境内にあった永福寺を合併した。御詠歌に「かみほとけ ともにめぐみの えいふくじ にせあんのんと ねがうものかな」と神仏習合期の名残りがある。 
 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。札所本尊は十一面千手観世音菩薩で、「結びの観音」と呼ばれている。子授けの信仰もある。
 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第21番札所。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 
 平安時代、847年、慈覚大師(円仁)は唐からの帰路、海上で暴風に遭遇する。海難から免れた際には三体の観音像を造仏し有縁の地に奉安すると祈念した。太宰府へ無事帰国したため、比叡山に三体の観音像を安置したという。
 847年、第80代・高倉天皇の勅命により法華山峰ヶ堂に三体の一体を遷したという。
 室町時代、1478年、応仁・文明の乱(1467-1477)の際に、兵火を免れ下津村の五社神社境内に御堂を建立した。像を安置し、法華山永福寺とした。
 近代、1879年、永福寺は長福寺と合併している。
 現代、1995年、阪神淡路大震災で観音像が損壊する。その後、修復された。
◆円仁
 平安時代前期の天台僧・円仁(えんにん、794-864)。慈覚大師。下野国に生まれた。9歳で大慈寺・広智に師事、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事、最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご、修行僧の集団生活による一定期間の修行)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。常坐三昧、法華経書写などの苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て心身回復し、法華経書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立した。836年、837年、渡唐に失敗、838年、最後の遣唐使として渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山・大花厳寺を巡礼し国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青竜寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法を授かる。また、悉曇(梵語)、止観(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰る。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。横川中堂(根本観音堂)を建立する。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。『顕揚大戒論』、9年6カ月の唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。東京・瀧泉寺、山形・立石寺、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。
◆建築 現在、近くの五社神社境内の西に永福寺の観音堂が残されている。
◆仏像 十一面千手観世音菩薩は八尺(2.42m)の像で「結びの観音」と称されている。かつて法華山永福寺の本尊だった。合併・廃寺後、当寺に遷された。平安時代の僧・円仁が唐から無事に帰国した際に造仏した三体の観音像の一つともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『洛西三十三所観音霊場』『日本の名僧』


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【参照】五社神社境内にある観音寺の観音堂
 長福寺 〒615-8065 京都市西京区下津林楠町105  075-381-2966 
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