新玉津嶋神社 (京都市下京区)
Nitamatsushima-jinja Shrine
新玉津嶋神社 新玉津嶋神社 
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「北村季吟先生遺跡」石標








拝殿





本殿



末社



天満宮、祭神は菅原道真



天満宮



秋兼神社
 烏丸通西、松原通南に新玉津嶋神社(にいたまつしま- じんじゃ)が建つ。付近の町名も当社に因み玉津島町という。 
 この地には、平安時代の歌人・藤原定家の父・俊成の邸宅があり、その後、社殿が建立された。隣接して和歌所が置かれ、各時代の歌人ゆかりの地にもなった。また、当社の東、烏丸通に面して俊成社が祀られている。
 祭神は稚日女尊(わかひめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)。
 短歌、俳句、文章上達祈願の信仰篤い。
◆歴史年表 平安時代後期、1186年、歌人・藤原俊成が勅旨を得て、五条通(現松原通、五条烏丸付近)にあったという自邸に社殿を造営した。紀伊国・玉津島明神(衣通姫尊とも)を勧請したことに始まるという。「新玉津島神社」と称した。(社伝)
 南北朝時代、1346年、再建された。社領地に和歌所を再置する。
 1350年、室町幕府初代将軍・足利尊氏は、僧・歌人の経賢を別当職にする。
 室町時代、1417年、尊氏により社殿が再修された。
 1434年、焼失する。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。
 その後、冷泉家により再興された。
 江戸時代、天和年間(1681-1684)/元禄年間(1688-1704)/1683年、歌人・北村季吟が当社の祠官(神官)になる。社殿が修復される。若い松尾芭蕉(1644 -1694)が藩主の用向きで当社を訪ね、季吟の弟子になったという。
 1730年、境内に開運天神社が祀られ、この年より祭礼が始まったという。(『月堂見聞集』)
◆藤原俊成 平安時代後期-鎌倉時代初期の歌人・公卿・藤原俊成(ふじわら-の-としなり/しゅんぜい、1114-1204)。初名は顕広、法名は釈阿。父は権中納言・藤原俊忠の3男、母は伊予守・藤原敦家の娘。子に定家。10歳で父に死別、葉室顕頼の養子になる。藤原為忠の催しに参加した。25歳で、藤原基俊の門弟になる。九条兼実の歌道師範になる。54歳で、本家・御子左家(みこひだり)に戻り、俊成と改名した。63歳で、病により出家した。1150年、崇徳上皇主催の「久安百首」の作者、1166年、「中宮亮重家朝臣家歌合」などの歌合判者を務めた。『千載和歌集』(1188)選者、歌論書『古来風躰抄』(1197)などを著す。邸宅「五条第」が五条通にあったとされ、五条三位とも呼ばれた。正3位皇太后宮大夫。西行とも親交があった。91歳。
 東福寺塔頭・永明院(東山区)に墓所がある。
◆経賢 南北朝時代の僧・歌人・経賢(きょうけん、?-?)。通称は妙法院法印。父は僧・歌人・頓阿(とんあ)。1350年、足利尊氏は経賢を新玉津嶋神社の別当職にする。1364年、『新拾遺和歌集』の撰定で父を補助した。年中行事歌合、新玉津島社歌合などに参加した。1372年、父没後、仁和寺の山荘「葵花園(さいけえん)」、常光院を継承した。法印・大僧都に任じられた。『新続古今和歌集』などの勅撰集に入集している。
◆北村季吟 江戸時代前期の俳人・歌人・和学者・北村季吟(きたむら-きぎん、1625-1705)。名は静厚、通称は久助、号は七松子、拾穂軒(しゅうすいけん)、湖月亭、慮庵。祖父、父・宗円ともに近江の医師。京都で生まれたという。医業の傍ら、1639年、安原貞室、後に19歳の頃、師・松永貞徳の門に入る。俳諧、和学を学ぶ。古典を講釈し、俳諧を指導した。1683年/天和年間(1681-1684)、新玉津島社の神官になる。1689年、子・湖春と共に幕府歌学方になり、江戸に召される。1699年、法印に叙せられ、再昌院(さいしょういん)の号を受けた。以後、北村家は歌学方を襲した。注釈書『八代集抄』108巻50冊(1682)など著作多数。82歳。
 松永貞徳門下七俳仙の一人、門下に素堂などがいる。若い頃の俳諧師・松尾芭蕉(1644-1694)は、藩主の用向きで新玉津島社を訪れ、一時、季吟の弟子になったいう。季吟の勧めにより俳諧の道に入ったという。
◆森河章尹 江戸時代前期の神職・森河章尹(もりかわ-あきただ、1670-1762)。藤原姓。和歌を冷泉家、北村季吟に学ぶ。季吟の後を継ぎ、新玉津島神社社司になる。1748年、対馬守。91歳。
 1752年、国学者・本居宣長(1730-1801)は当社を訪ね章尹に入門する。ただ、本人不在で子に会う。帰路に対面した。章尹は宣長にも影響を与えたという。
◆五条第 藤原俊成の邸宅「五条第」は、新玉津嶋神社の一画(玉津島町南部)とされる。(『新玉津島記』)。また、当社の東、俊成社(俊成町)ともいう。
 実際には、左京五条四坊十六町の南部(五条大路北、京極大路西の町、現在の下京区京極町西、桝屋町南、石不動町北)付近にあったという。俊成はここに生まれ育った。1183年、武将・平忠度(1144-1184)は、平家一門の都落ちの際に取って返し、五条第の俊成を訪ねた。いつか平穏な世に戻った際には、自作の歌を勅撰集に採るように懇願したという。俊成は「よみひと知らず」として『千載和歌集』に一首「故郷の花」を選んだという。(『平家物語』)
 俊成は、1196年頃に五条第より三条に移る。俊成の子・定家、定家の同腹姉・八条院権中納言、八条院按察(あぜち)、建春門院中納言らも五条第に育った。(『山塊記』『明月記』『玉葉』)
◆和歌所 境内に隣接して和歌所が建てられていた。南接する室町大路までの藤原俊成邸宅内にあったという。当職の者が社の別当に任じられた。後に、旧宅地を公卿・歌人・二条為明(1295-1364)が伝領した。
 平安時代、1183年、後白河院の院宣(いんぜん)により、俊成は7番目の勅撰和歌集(『千載和歌集』)の撰進をこの和歌所で行う。(『拾芥抄』)。南北朝時代、1363年、新玉津島社歌合などが催された。また、同年、『新拾遺集』勅撰の綸旨(りんじ)が撰者・為明に送られている。(『拾芥抄』)
◆松原通 社地の面する東西の松原通は、平安京の五条大路に当たる。近世初めまでは五条松原通と呼ばれた。安土・桃山時代、1589年の豊臣秀吉の方広寺建立に際し、現在地に五条石橋の架け替えが行われた。これに伴い、五条通松原通は松原通と改められた。
 通りは当社の参道を兼ねていたという。江戸時代、通りの両脇に松並木があり、そのため松原通と呼ばれたともいう。北村季吟の別号、七松子も松並木に因んでいる。
◆年間行事 火焚祭(11月13日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『平安京散策』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都 歴史案内』、『京都の地名検証 2』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都の寺社505を歩く』、ウェブサイト「コトバンク」


  
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手水舎

手水舎
【参照】室町時代後期の「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた玉津島、鴨川二条大橋の説明板より  
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 新玉津嶋神社 〒600-8427 京都市下京区玉津島町309,松原通室町東入ル南側 
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