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永明院〔東福寺〕 (京都市東山区) Yomei-in Temple |
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永明院 | 永明院 | |
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![]() ![]() 山門 ![]() 山門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
![]() 墓所入口に立つ「五條三位俊成卿 兆殿司 参道」の石標 ![]() 「夜泣地蔵尊 参道」の石標 ![]() ![]() 「五條三位俊成卿 兆殿司 墓」の石標 ![]() 業仲明紹の墓 ![]() 吉山明兆(明兆、東福寺兆殿司)の墓 ![]() 藤原俊成(五條三位俊成卿)の墓 ![]() 東浄如禅尼の墓 ![]() 不明 ![]() ![]() 夜泣地蔵尊 |
東福寺境内の南、山を背にして長い白壁の内に東福寺塔頭、永明院(ようめい-いん)はある。美仏の釈迦如来坐像を安置している。 臨済宗東福寺派大本山。本尊は釈迦如来。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1279年、東福寺6世・蔵山順空(円鑑禅師)の開基による。 1307年、蔵山順空は永明庵に退居した。 南北朝時代、1362年、浄如禅尼は藤原俊成の菩提を弔うために、九条家の月見殿(月輪殿?)を寄付し堂宇にした。永代供養のために、山林田畑3町(327m、13町歩とも)四方を施入する。(『坊目誌』) 室町時代、1414年、足利義持は、永明院の境内を割き、境内南に東福寺塔頭・南明院を建立した。 1431年、2世・吉山明兆(きっさん-みんちょう)が南明院で没した。 1445年、焼失する。 1451年、再建された。 近代、1868年以降、荒廃する。 現代、1983年、現在の本堂が再建される。 ◆蔵山 順空 鎌倉時代中期-後期の臨済宗の僧・蔵山 順空(ぞうざん-じゅんくう、1233-1308)。男性。諡号は円鑑(えんかん)禅師。九州に向かう船中で生まれたという。幼くして肥前・万寿寺の神子栄尊により出家、後に円爾、鎌倉の蘭渓道隆に付く。1262年、北条時頼の勧めにより入宋した。帰国後、久池井の地頭職・国分忠俊に請われ、1273年、尊光寺院主、肥前に高城寺を開く。1300年、東福寺6世になる。1307年、永明庵を興し退居した。宋朝風の純粋禅を勧めた。76歳。 聖一派下の永明院派の祖。門派に大道一以、固山一鞏(こざん-いっきょう)、画人・吉山明兆(南明院2世)など。 永明院(東山区)南に墓がある。 ◆浄如 禅尼 鎌倉時代の尼僧・浄如 禅尼(じょうにょ-ぜんに、 ?-?)。詳細不明。女性。冷泉家の出身という。藤原俊成の娘ともいう。 永明院(東山区)南に墓があり、五輪塔が立つ。 ◆藤原 俊成 平安時代後期-鎌倉時代前期の歌人・公卿・藤原 俊成(ふじわら-の-としなり/しゅんぜい、1114-1204)。男性。初名は顕広、法名は釈阿。父・権中納言・藤原俊忠、母・伊予守・藤原敦家の娘の3男。子に定家。10歳で父に死別、葉室顕頼の養子になる。藤原為忠の催しに参加した。25歳で、藤原基俊の門弟になる。九条兼実の歌道師範になる。54歳で、本家・御子左家(みこひだり)に戻り、俊成と改名した。63歳で、病により出家した。1150年、崇徳上皇主催の「久安百首」の作者、1166年、「中宮亮重家朝臣家歌合」などの歌合判者を務めた。『千載和歌集』(1188)選者、歌論書『古来風躰抄』(1197)などを著す。邸宅「五条第」が五条通にあったとされ、五条三位とも呼ばれた。正3位皇太后宮大夫。西行とも親交があった。91歳。 東福寺塔頭・永明院(東山区)に墓所がある。 ◆大道 一以 鎌倉時代後期-南北朝時代の臨済宗の僧・大道 一以(だいどう-いちい、1292-1370)。男性。出雲(島根県)の生まれ。建長寺の約翁徳倹、南禅寺の規庵祖円、一山一寧、東福寺の南山士雲、乾峰士曇などに付く、蔵山順空の法を嗣ぎ、永明院に住した。淡路の太守・細川師氏(ほそかわ-もろうじ)に招かれ安国寺を開く。吉山明兆(きつさん-みんちょう)が弟子に入り、道号・法諱を授けた。明兆は、安国寺で画に専念し、禅修行を怠ったとして師弟の縁を切ったという。その後、東福寺28世、南禅寺32世。79歳。 臨済宗聖一派。 ◆性慶 鎌倉時代前期の仏師・性慶(?-?)。詳細不明。男性。西園寺大仏師法院性慶。1324年、東福寺・永明院の釈迦如来坐像を像立したという。 ◆吉山 明兆 南北朝時代-室町時代中期の画僧・吉山 明兆(きちざん/きっさん-みんちょう/みょうちょう、1352-1431)。男性。号は破草鞋(はそうあい)、俗称は兆殿司(ちょうでんす)。淡路島(兵庫県)の生まれ。幼くして淡路安国寺の開山・大道一以(だいどう-いちい)に師事した。画事に熱中し、破門しかけ・破草鞋と自戒し号した。その後、画才が認められる。1356年、東福寺28世として住した大道に従い入寺する。終生雑役の殿司になり、兆殿司と呼ばれた。1383年/1386年、代表作「五百羅漢図」50幅(東福寺蔵・根津美術館蔵)を制作する。この間、郷里の母親が病になり、帰郷果たせず自画像を送り、早い作例になる。1394年、「大道一以像」(奈良国立博物館蔵)、1404年、「普明国師像」(光源院蔵)、1408年、代表作「大涅槃図」(東福寺蔵)、1413年、伝・詩画軸「渓陰小築図」 (南禅寺金地院) 、1427年、「四十祖像」(東福寺蔵)などがある。80歳。 宋・元の仏画、道釈画を研究し、強い墨線・濃い色彩に特徴がある。東福寺で多くの仏画・道釈画(人物画)、頂相を制作した。独自画風により「東福寺派」形成の基礎を作る。東福寺に残る作品としては、「大涅槃図」、「四十祖像」、「聖一国師岩上像」、「白衣観音図」、「達磨・蝦蟇鉄拐図」などがあり、三門楼上内の「迦陵頻迦」も一門とともに手掛けた。塔頭・光源院に「春屋妙葩像」がある。弟子に霊彩・赤脚子らがある。 塔頭・南明院(東山区)2世になり、同院で亡くなった。 ◆仏像・木像 ◈祠堂安置の「釈迦如来坐像」(53.5㎝)(重文)は、像底の銘により鎌倉時代後期、「元亨四年(1324年)」、仏師「西園寺大仏師法院性慶(性慶)」による。 美仏であり、宝冠を被り、細く曲線を描いた整った眉、切れ長の目、形よく通った鼻筋、引き締まった唇をする。結跏趺坐、法界定印を結ぶ。衲衣(のうえ)のまとい方も特徴がある。木造、彩色、玉眼、截金文様。 像内納入品には「般若心経」390部1巻、「般若心経」360部1巻、「勧進奉加帳」1巻、「正観音印仏」1巻、「毘沙門天印仏」1巻が納められていた。京都国立博物館寄託。 ◈祠堂安置の「円鑑禅師坐像」(70.3㎝)(重文)は、像内に鎌倉時代後期、「延慶二年(1309年)」の奥書ある法華経が納められていた。木造、彩色、金泥、玉眼、截金文様。 像内に「法華経」8巻、「法華経(四部)」32巻、「法華経四用品・般若心経」など5巻、「法華経陀羅尼」8巻、「華厳経」10巻などが納められていた。像内納入品は京都国立博物館寄託。 ◈祠堂に「大道和尚坐像」(74.8㎝)(重文)を安置する。南北朝時代作、木心塑像。 ◆建築 開山堂は江戸時代に建立された。現代、1979年に改築されている。 ◆文化財 ◈絹本著色「円鑑禅師像」1幅(重文)、明兆筆、室町時代作、京都国立博物館寄託。 ◈「大道一以墨蹟」4巻(重文)、南北朝時代作。「枇杷頌軸 自序・明鹿頌軸 自序 古源邵元跋」、「瑞雪頌軸 慶円月心序、蒙山智明跋」、「松菌石榴頌軸 友山士偲序、放牛光林跋」、「附 大道一以追悼頌軸 夢岩祖応序、此山妙在跋」1巻 ◈「十六羅漢図」は、明時代(15~16世紀)作になる。洗練された美しい描線で表現している。 ◆墓 開山堂の円鑑禅師(蔵山順空)像の下、地中に80㎝四方の石室が見つかっている。大道一以の碑があった。固山一鞏(こざん-いっきょう)の墓も見つかっている。 境内の南西境外の南明院山に「藤原俊成卿墓」といわれる墓所がある。墓地内に塀の囲いがあり、東に業仲明紹が眠る。北に大小2基の五輪石塔が立ち、右手(東)は藤原俊成(五條三位俊成卿)、左は娘・浄如禅尼の墓といわれている。自然石の一つは吉山明兆(明兆、東福寺兆殿司)の墓とされる。 墓所は「俊成卿・俊成卿女墓」とも呼ばれていた。墓地はかつて法性寺の境内であり、永明院境内を経て、南明院に移ったという。また、浄如禅尼の墓は俊成の母の墓ともいわれていたという。(『都林泉名勝図会』) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『旧版 古寺巡礼 京都 18 東福寺』、『京都の禅寺散歩』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、ウェブサイト「東福寺」、ウェブサイト「東京国立博物館」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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