光明山寺跡 (京都府木津川市) 
Site of Komyosen-ji Temple
光明山寺跡 光明山寺跡
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光明山寺石仏群、周辺に散乱していたものを集めたものという。11体ほどの石仏、石塔の一部などが祀られていた。


光明山寺石仏群


光明山寺石仏群


光明山寺石仏群、石塔の笠


光明山寺跡、最盛期には谷一帯、四方の山々にも多くの伽藍が建ち並んでいたという。


国見観音堂、光明仙の西、急峻な山の中腹にある。


国見観音堂、光明山寺塔頭の遺仏という観音菩薩立像が安置されている。


国見観音堂、三角の蹲踞


国見観音堂より京都市内方向の景色


国見観音堂


国見観音堂、途中の竹林


【参照】以仁王を祀る高倉神社、山城町神ノ木にあり、光明山寺の西方の山麓にあたる。


【参照】高倉神社の西、小字鳥居には「綺田鳥居」の地名が残っている。


【参照】浄妙塚、高倉神社の南にある。
 木津川市山城町綺田を流れる天神川に沿いに東へ、山道を1㎞ほど上るとやがて山間の水田地帯に至る。川の源流にあたる地は、光明仙(こうみょう-せん)と呼ばれ、周囲には竹林も広がる。  
 かつてこの地に、広大な境内を有した光明山寺(こうみょうせん-じ)が存在し、山岳仏教、山岳信仰の一大拠点として多くの高僧を輩出した。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 飛鳥時代、伝承として役小角(634-701)が止住したともいう。(『(笠置寺縁起』)
 平安時代、10世紀(901-1000)後半、第59代・宇多天皇勅願により、真言宗広沢流の寛朝僧正により開かれ、本尊を薬師仏としたともいう。寺院は棚倉山にあり、僧坊28宇、末山28宇、交衆20口を数えたという。(『興福寺官務牒疏』、1441)
 1041年、弘寛僧都により再建されたともいう。(『興福寺官務牒疏』)
 1050年、永観が蟄居する。
 1106年、光明山寺の名が『東大寺要録』中にある。
 11世紀(1001-1100)後半、奈良・東大寺の僧・厳琱(げんちょう、厳もう)により再興されたとされる。(『東大寺要録』)。東大寺東南院三論系の念仏別所になる。 *厳もう(王+罔)。
  平安時代後期-鎌倉時代、12世紀(1101-1200)、藤原氏摂関家の庇護の下、入山した静誉は堂舎・僧坊120を数えたと伝える。山岳道場としても知られ、真言密教僧が相次いで入山した。老尼僧の姿もあったという。境内は東は大峰、西は山麓、南は淀谷川、北は渋川に及び、また、南北2km、東西5kmの広さがあったともいう。四方の山々、山麓まで伽藍が建ち並んでいたという。
 1104年、関白・藤原忠実は、光明山寺四至内での樵採狩猟等を禁じた。
 1144年、実範が光明山寺で没した。
 1180年、以仁王は南都の興福寺へ向かう途中、南山城の加幡河原で平家家人の藤原景高・藤原忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。光明山鳥居前(綺田小字鳥居付近)で戦死したという。(『平家物語』巻4)。この際に、光明山寺は平家の軍により焼かれたともいう。
 鎌倉時代、東大寺の末寺になる。
 1213年、光明山寺と綺荘との間で境界争いが起こる。
 1254年、光明山寺と古河荘の間で境相論が起こる。
 1312年、光明山寺と古河荘の間の境相論で東大寺が勝訴し決着する。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、蟹満寺は、光明山寺の庇護の下に置かれたという。
 室町時代、奈良・興福寺の末寺になる。
 文明年間(1469-1487)、応仁・文明の乱(1467-1477)では、周辺で陣取りが行われる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、笠置寺の末寺になる。
 近世初頭、衰微した。
 江戸時代前期、17世紀(1601-1700)、廃絶した。
 現代、1989年、坊院跡が発掘される。
◆寛朝 平安時代中期の真言宗の僧・寛朝(かんちょう、916-998)。男性。遍照寺、遍照寺僧正、広沢御坊(ひろさわ-ごぼう)。父・敦実親王(第59代・宇多天皇の子)。祖父・寛平法皇(宇多法皇)の下で11歳で出家得度し、寛空から両部灌頂を受けた。939年、第61代・朱雀天皇の勅命により、平将門の乱平定の祈祷により乱を治めたという。940年、東国鎮護のために成田山新勝山を開山した。948年、寛空に伝法灌頂を受ける。967年、仁和寺別当になり、981年、東寺長者に就任した。宮中での第64代・円融天皇の病気平癒祈祷の際に、壇法を修し眼前に不動明王が顕れたちどころに治癒したという。円融天皇は帰依する。985年/986年、東寺真言宗初の大僧正になる。987年、第66代・一条天皇の勅により、六大寺の僧を東大寺大仏殿に集め降雨を祈願すると、翌日夕刻、大仏殿に遠雷轟き大雨になったという。989年、広沢池畔、遍照山山麓の山荘を改め、遍照寺を建立した。83歳。
 事相(じそう、密教修法)、教相(密教理論)に優れ、真言宗古義派の根本二流の一つ「広沢流」の始祖になり、遍照寺はその本源地になった。広沢流は後に6流に分かれる。仁和寺、西寺、東寺長者、東大寺別当などを兼任した。第61代・朱雀天皇などの歴代天皇の戒師、潅頂の阿闍梨も務める。一律上人より声明を学び、密教声明を整え『理趣経(りしゅきょう)』を作曲し、東密声明道の中興と称された。弟子に深覚、雅慶などがいる。
◆永観 平安時代後期の三論宗の僧(えいかん/ようかん、1033/1032-1111)。男性。俗姓は源(みなもと)。京都の生まれ。父・文章博士・源国経。幼くして出家した。京都・禅林寺(永観堂)の深観(じんかん)に師事し、真言、三論、華厳、法相を学ぶ。後に、東大寺で受戒し、有慶らに三論、法相、華厳などを学ぶ。後に、念仏三昧に転じた。 30歳で光明山寺に隠遁し、10年後、請われて禅林寺に移る。1100年、白河院(第72代)の要請で東大寺別当になる。「能治の永観」と称された。2年後、禅林寺に戻り、同寺で没した。著『往生講式』『往生拾因』など。79歳。
 浄土教興隆の先駆者。浄土宗八祖の一人。
◆厳琱 平安時代後期の真言宗の僧・厳琱(げんちょう)。詳細不明。男性。厳もう。奈良・東大寺の僧。11世紀(1001-1100)後半、光明山寺を再興したという。(『東大寺要録』)。東大寺東南院三論系の念仏別所になる。 *厳もう(王+罔)。
◆静誉 平安時代後期の真言宗の僧・静誉(じょうよ、?-?)。詳細不明。男性。通称は越前阿闍梨。京都小野・曼荼羅寺で学ぶ。1105年、範俊(はんじゅん)に灌頂を受けた。後、近江・石山寺、山城・光明山に移る。 
 光明山流の祖。
◆覚樹 平安時代後期の僧・覚樹(かくじゅ、1079-1139)。詳細不明。男性。父・村上源氏の右大臣・源顕房の子。東大寺東南院、法印慶信の弟子になる。1098年、維摩会の竪者になった。1129年、権律師に、1132年-1138年、少僧都に任じられる。
◆実範 平安時代後期の真言宗・律宗僧・実範(しっぱん/じちはん/じつはん、? -1144)。男性。俗姓は藤原、字は本願、通称は中川少将、少将上人。京都の生まれ。父・参議・藤原顕実。興福寺で法相教学、醍醐寺の厳覚(ごんかく)・高野山の教真に真言密教、比叡山横川の明賢(みょうけん)から天台教学を学んだ。大和国忍辱山円成寺に隠棲し、中川寺成身院を開き、真言密教・天台・法相兼学の道場とした。1122年、「東大寺戒壇院受戒式」を定めた。晩年、浄土教になり光明寺に移っる。著『東大寺戒壇院受戒式』『病中修行記』など。
 日本浄土教高祖6人の一人。東密中川流の祖。曼荼羅寺、光明山寺、浄瑠璃寺、岩船寺などの密教・山岳寺院と関る。唐招提寺を復興し、戒律にも通じ南都律を復興した。藤原忠実などの出家に際し戒師を勤めた。
◆明遍 平安時代後期-鎌倉時代前期の僧・明遍(みょうへん、1142-1224)。男性。号は空阿弥陀仏、高野僧都、蓮華谷僧都。父・藤原通憲(みちのり、信西)。1159年、平治の乱で父は斬首され、越後国に配流になる。東大寺で三論を学び、大和・光明山に遁世した。高野山に蓮華三昧院を開く。30年間山を下りなかった。法然に帰依し、念仏専修したともいう。83歳。
 高野聖の三大聖集団(蓮華谷聖、萱堂聖、千手院聖)のうち、蓮華谷聖は明遍を偶像にした。
◆静遍 平安時代後期-鎌倉時代前期の真言宗の僧・静遍(じょうへん、1166-1224)。男性。号は心円房、真蓮房。禅林僧都(法印)、大納言僧都(法印)。父・平頼盛。醍醐寺座主・勝賢から真言小野流、仁和寺上乗院の仁隆(にんりゅう)から広沢流を受けた。京都・禅林寺の住持になる。高野山の明遍、笠置の貞慶にも師事した。仁和寺に住し僧都になる。『選択本願念仏集』を読み法然に帰依した。1217年、清凉寺釈迦堂の炎上後に勧進説法を行う。同年、仁和寺宝庫から『般舟讃』を発見し『続選択文義要鈔』を著した。1221年、後高倉院の院宣により禅林寺に住した。晩年、高野山往生院に移る。59歳。
◆南都浄土宗 光明山寺は南都浄土教の高僧を多く輩出した。頼基、覚樹、実範、心覚、永観、明遍、静遍などがいる。
 法然が南都へ向かう途中、寺に立ち寄った可能性もあるという。
◆光明山寺・蟹満寺 麓にある蟹満寺と光明山寺との関わりは深いとされている。蟹満寺本尊の釈迦如来坐像(国宝)は光明山寺より遷されたという伝承があり、その造仏時代、経緯について議論が続いている。
 蟹満寺は山号を光明山懺悔堂と称し、本尊は観音像と釈迦像とされたという。(『山城名勝志』、1705)
 釈迦仏は、かつて光明山寺近くにあったという高麗寺で造仏され、廃絶後は光明山寺に遷された。さらにその廃絶後に、光明山寺懺悔堂の蟹満寺に遷されたともいう。また、この光明寺とは井手寺(井堤寺)であるとした説、山城国分寺を表す金光明寺とし、釈迦仏はいずれかの寺より蟹満寺に遷されたともいう。
 また、現代、1990年の蟹満寺境内での発掘調査により、釈迦仏は蟹満寺創建時以来動かされていないとも、上記以外の別の寺より遷されたともいう。
◆遺構 光明山寺の跡地の田畑からは、礎石、石仏、石塔、土器片なども発掘されている。現代、1989年には坊院跡が確認された。
 平安時代-鎌倉時代、11世紀末-13世紀中期の石組みの水洗便所の遺構も発見された。2時期あり、新しいものは、径20-50cm大の石を2列に組んだもので、中央に幅20cm、深さ80cm、長さ5.7mの溝が掘られていた。便所本体は2.4mあり、南側1.4mは暗渠になり、築地塀の外へ続いていた。溝は北から南に緩やか傾斜し、木樋を通して再利用した上水を溝に流し、排泄物は暗渠を通して、谷川へ落としていた。
◆遺仏 周辺の寺院に光明山寺の遺仏とされる仏像がある。
 ◈北近くにある国見観音堂には、御堂内に鎌倉時代-南北朝時代の石造丸彫りの「観音菩薩立像」が安置されている。像高は71.5㎝、蓮弁の台座に立つ。両足は少し開く。右手は施無畏印、左手は蓮弁の弓型に湾曲した茎を掲げている。頭に宝冠を被り、金色に彩色された跡が残るという。首に三道、衣門は石仏としては複雑で、左右対称に整えられている。光明山寺の塔頭の一つに祀られていたものという。
 ◈光明仙の一角に、「光明山寺石仏群」がある。室町時代のものという十数体の石仏、鎌倉時代の石塔の台座、笠などが祀られている。近年、地元有志の手により集められたという。
 ◈禅定寺(宇治田原)の平安時代中期の木造「日光・月光菩薩立像」(重文)(203㎝、207.9㎝)は、光明山寺の遺仏とも、奥山田の医王教寺の遺仏ともいう。
 ◈十輪寺(平尾)の室町時代、1459年の絹本著色「十二天画像」は遷されたという。善福寺(田原庄名村)の「薬師仏坐像」、「十二神」も遺仏ともいう。
◆自然 天神川上流の光明仙周辺は、山間に水田が開かれている。周辺には竹林がある。現代、1997年の京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「光明仙(光明山寺跡)」として選定された。
◆周辺の史跡  ◈以仁王を祀る高倉神社は、山城町神ノ木にあり、光明山寺の西方の山麓にあたる。
 かつてこの付近に光明山寺の鎮守社の鳥居があり、綺田一帯に広がる広大な境内だった。参道はこの付近より東の山へと続いていた。
 鳥居は平家物語に登場する。「案のごとく宮は参騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居のまえにて追ッつきたてまつり雨の降るやうに射まひらせければ、いづれが矢とはおぼえねど宮の左の御そば腹に矢一すぢ立ちければ、御馬より落させ給て、御頸とられさせ給ひけり…」(『平家物語』巻四「宮御最後」)
 平安時代-鎌倉時代(12世紀)に、この付近の山道両脇には松が植えられ、多くの卒塔婆が立てられていたという。
 ◈高倉神社の西、小字鳥居には「綺田鳥居」の地名が残っている。
 平安時代後期、1180年、以仁王は興福寺へ向かう途中、南山城の加幡河原で平家家人の藤原景高・藤原忠綱らの追討軍により討たれた。場所は光明山鳥居前(綺田小字鳥居付近)という。(『平家物語』巻4)
 ◈浄妙塚は、高倉神社の南にある。
 平安時代後期の僧・筒井浄妙(?-?)は、近江・園城寺浄妙坊の寺法師だった。平安時代後期、1180年の源頼政と以仁王の挙兵に従い、平氏との宇治の戦いで戦死した。この塚のさらに南に、東西に流れる野田川といわれる小川がある。この川はかつて、「もんぐち(門口)川」と呼ばれた。この付近に、光明山寺の山門があったことからこの名が付けられたという。光明山寺の境内は山間の光明仙付近のみならず、この付近の綺田一帯、山里まで広がっていたとみられている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『山城町史 本文編』、『京都・山城寺院神社大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」   

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