願徳寺 (宝菩提院) (京都市西京区) 
Gantoku-ji Temple
願徳寺 (宝菩提院) 願徳寺 (宝菩提院) 
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本堂






庫裏



庫裏前の枯山水式の庭



境内背後の小塩山



石灯籠、本堂前、「宝菩提院」と刻銘されている

 大原野、小塩山麓の願徳寺(がんとくじ)は、勝持寺に隣接してある。かつて寺戸観音寺とも呼ばれていた。美仏の国宝、如意輪観音菩薩半跏像で知られている。
 山号は仏華林山(ぶっかりんざん)、院号は宝菩提院(ほうぼだいいん)と称する。
 天台宗。本尊は国宝の如意輪観音菩薩半跏像。 
 京都洛西観音霊場第33番札所。
◆歴史年表  飛鳥時代、679年、向日丘陵東麓(向日市寺戸)に創建された。第41代・持統天皇の夢告により、薬師如来を本尊としたという。天台宗の仏華山願徳寺と称し、付近の有力豪族の氏寺とされる。境内は南北800m、東西1300mの境内に伽藍がある大寺院だった。
 784年、長岡京遷都の頃、「京下の七寺」の一つとして「長岡寺」と呼ばれたともいう。
 791年、山背国の諸寺の塔修理に際して修復される。
 864年、本尊の薬師如来は、太秦・広隆寺に遷されている。
 平安時代、寺号は願徳寺と称されていた。徳のある願いによって建てられたことに由来するという。
 一時衰退する。
 平安時代後期、小川殿(東山区)の宝菩提院(東山三条小川)に住した平教盛の子・忠快が院と共に移り、中興したという。台密の中心的な寺院として隆盛した。
 平安時代-鎌倉時代、忠快弟子・承澄(しょうちょう)に継がれる。天台密教の秘法を行い、穴太流や西山派を生む密教大寺院になる。承澄は、第88代・嵯峨天皇の勅により寺領を再興し、薬師、地蔵尊を遷したともいう。
 鎌倉時代、1331年、元弘の乱で焼失した。その後、衰微する。
 鎌倉時代末期-南北朝時代、澄豪により中興される。平敦盛の小川殿にあった宝菩提院の本尊・地蔵菩薩を遷し、院号も移され宝菩提院願徳寺になる。
 室町時代、1469年、応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により焼失する。
 安土・桃山時代、1571年、織田信長の元亀の乱の兵火により焼失する。
 天正年間(1573-1592)、再興された。
 江戸時代、徳川家康の加護を受け再興される。
 近代、明治期(1868-1912)、旧地での発掘調査が行われている。
 1877年、衰微した。
 昭和期(1926-1989)に入り、荒廃が進む。
 現代、1962年、本尊の観音像、諸仏が勝持寺に遷された。
 1964年、旧地(向日市寺戸町西野)の宝菩提院は廃寺になる。
 1973年、勝持寺東隣の現在地に移転し、本堂と庫裏が再建された。
 1978年、旧地での発掘調査が行われている。
 1996年、本尊などが勝持寺より願徳寺に戻される。
 2004年、旧地の寺院跡地より湯屋(蒸し風呂)跡が発掘された。東大寺の湯屋より古く、平安時代前期、9世紀(801-900)以前のものとみられている。
◆忠快 平安時代末期-鎌倉時代初期の天台宗の僧・忠快(1162-1227)。父は、平清盛の弟・教盛。覚快法親王門下に入り、1176年、受戒。慈円、玄理に師事、青蓮院に住する。権少僧都となり、1183年、平家一門とともに都落ち、1185年、壇ノ浦の戦いで捕虜となり、伊豆国へと配流される。その地で源頼朝らの帰依を受ける。1189年、帰京し、三条小川高畠に宝菩提院を営む。後高倉院、3代将軍・源実朝などの尊崇を集める。承久年間(1219-1222)、比叡山横川の長吏。教学は後に小川流と呼ばれ、台密十三流の一派となる。権少僧都、法眼、権大僧都と進んだ。通称は小川法印、中納言律師。
◆道昌 平安時代前期の僧・道昌(どうしょう、798-875)。讃岐国秦氏に生まれた。14歳で奈良・元興寺の明澄に三論教学を学ぶ。818年、東大寺で受戒、828年、神護寺(東寺とも)の空海に真言密教を学び灌頂を受けた。承和年間(834-848)、大堰川堤防を改築した。836年、広隆寺別当・隆城寺別当を歴任。権律師、律師、874年、少僧都、嵯峨葛井寺を再興し法輪寺と改める。淳和天皇皇子・恒貞親王を弟子とした。
◆承澄 鎌倉時代中期の天台密教の僧・承澄(しょうちょう、1205-1282)。藤原師家の子。西林院承円のもと8歳で得度、覚審、忠快に師事した。兄(叔父)の尊澄と共に台密について集大成した図像集、227巻、233巻の『阿娑縛抄(あさばしょう)』(1275年、1259年とも)を編した。小川邸(東山三条)に住み、小川僧正とも呼ばれた。
◆澄豪 鎌倉時代-南北朝時代の僧・澄豪(ちょうごう、1259-1350)。比叡山で承澄に天台密教の穴太流をまなび、西山流をおこす。宝菩提院をひらき、近江・金剛輪寺で著作に専念した。伝法和尚、西山上人と称した。
◆仏像・木像 飛鳥時代、創建時の本尊だった「薬師如来」は、乙訓社の神木により造仏されたものという。平安時代、864年、道昌により広隆寺に遷されたという。(『広隆寺由来記』)。
 現在、本堂内中央に美仏の「菩薩半跏像(如意輪観音、月光菩薩)」、右脇侍に「薬師瑠璃光如来立像(薬師如来立像)」、左脇侍に「厩戸王(聖徳太子)二歳像」、右奥上に「不動明王」、「弘法大師」、「忠快和尚」、「伝教大師」、左奥上に「慈覚大師」、「御前立」、厨子内に「毘沙門天」、「元三大師」、「弁財天」を安置する。さらに、左手前に「青不動明王」が掛けられている。
 平安時代初期(8-9世紀)の等身大「菩薩半跏像」(国宝)(88.2㎝)は、如意輪観音、月光菩薩ともいわれる。端正面長な漆黒の美仏で知られる。頭の宝髻(ほうけい)は高く開いて中央で束ねる。額に水晶が嵌め込まれた白毫がある。正側背4か所に髪飾りがある。蓮華座(後補)に坐り右足を踏み下ろす。この半跏踏み下げ像(遊戯坐)は、本来、三尊像の左脇侍像のもので、独尊像としては特異なものという。左手は臂を曲げ施無畏(せむい)印、右手は膝頭で掌を前に向ける与願印も通例とは反対になる。素木に髪、唇、眼にわずかな彩色が残る。眼は二重瞼、瞳には黒曜石が嵌入されている。衣紋は複雑で華やか、背面で天衣と条帛(じょうはく、左肩から右脇腹に斜めに垂らした布)が交叉する特徴がある。条帛の腹前に懸かる部分は、腹下を横切る天衣の下をかいくぐり左足前まで延びる。座面下方に蓮肉を共木で刻み、上方に蕊(ずい)、底中心にほぞ孔がある。内刳りはない。この時代の類例はなく、唐代の渡来仏か、渡来人の作によるともいう。秦氏との関わりがあるともいう。渡来人であれば、奈良時代、778年か781年作ともいう。(『京都の佛像』)。空海が乙訓寺別当時代に、虚空蔵求聞持法の本尊として造らせたともいう。蓮肉後方に光背用の条溝が2つが縦にある。木造、本体から台座の蓮肉部まではカヤ材の一木造(一部突起部の小部分は剝ぎ寄せ)、素地。
 右脇侍の平安時代後期作、「薬師瑠璃光如来立像(薬師如来立像)」(重文)(110.3㎝)は、小川殿(東山三条)より遷されたという。右手は施無畏印、左手に薬壺をのせる。衣文の襞が少ない。木造、寄木造、漆箔、彩色(剥落)。
 左脇侍の鎌倉時代の「厩戸王(聖徳太子)二歳像」(府文化財)(70.4㎝)は、上畳に立ち上半身は裸、腰に赤い袴を着る。厳しい表情で合掌する。太子は2歳の春に、東方の釈迦浄土に向かい合掌した。この時、手の間に釈迦の舎利が現れたという。その様を表した南無仏太子像になる。後頭部内に阿弥陀如来像を納め、頭部、胎内に多数の銘文(名号、如来名、経文、木房)があった。木房に「仏子聖戒敬白」とあり、聖戒という僧が、異母兄の一遍(1239-1289)、父・如仏の冥福を祈るために、一遍没後の1、2年後、1290年頃に造像したもとのみられている。木造、寄木造、漆箔、玉眼。
 「青不動明王」は、江戸時代、絵所、貞綱の作。右に眷属の矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左に制叱(多)迦童子( せいたかどうじ)を従える。
◆建築 現在の「本堂」は、1973年に建てられた。寄棟造、銅板葺、鉄筋コンクリート造。
◆浴場遺跡 願徳寺の旧跡地(向日市寺戸町西野)での発掘調査は、1912年、大正期(1912-1926)以来行われ、心礎石、土器、瓦類などが発見されている。敷地は2町(200m四方)と推定されている。
 「宝菩提院瓦窯」では、創建時の瓦を焼成しており、灰、灰原が出土した。「大衆院跡」(寺戸町西垣内)では、僧侶が生活していた。9世紀前半の井戸から雑器、食器が出土し「大膳」「寺」「供養」などと書かれていた。
 平安時代初期(9世紀後半)の「浴場跡(湯屋遺構)」も発掘された。鎌倉時代、1239年の東大寺の湯屋よりも古く、国内最古の遺構とされている。敷地は斜面地にあり、東西方向に長い建物があった。東に釜場(湯釜)があり、河原石が敷き詰められていた。西か北に浴室があり、排水溝跡も見つかっている。浴場は大衆院にあり、僧侶、一般にも開放されていたとみられている。法隆寺の財産目録「流記資材帳」(746年)にある施設、釜場の規模などともほぼ一致していたという。


*建物内の撮影禁止。本堂の仏像のみの拝観です。本格的な庭園はありません。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『仏像』『京都の仏像』『京都おとくに歴史を歩く』『続 古佛』『昭和京都名所図会 6 洛南』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『京都大事典』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』


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播磨産の凝灰岩を刳り抜いたという棺、6世紀中期(古墳時代後期)。

蹲踞
 願徳寺 〒610-1153 京都市西京区大原野南春日町1223-2  075-331-3823
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