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正法寺 (京都府八幡市) Shobo-ji Temple |
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正法寺 | 正法寺 |
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![]() ![]() 法雲殿 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 地蔵堂 ![]() 地蔵堂 ![]() ![]() 方丈、唐門 ![]() 唐門 ![]() 唐門 ![]() ![]() 庫裏門 ![]() 寺務所 ![]() ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 玄関 ![]() 中門 ![]() 方丈 ![]() 方丈 ![]() 本堂 ![]() 境内裏山 |
正法寺(しょうぼう-じ)は、石清水八幡宮の南、東高野街道沿いに建つ。山号は徳迎山(とつこう-ざん)という。 浄土宗。本尊は阿弥陀如来三尊。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1191年/1192年、志水氏の祖・高田忠国が、源頼朝の幣礼使としてこの地に居住する。「新清水」と称し、以後、志水氏の菩提所になったという。1世は、忠国の次男・願阿円誓であり、当初は天台宗だった。(「正法寺文書」) 1263年、円誓は、掟法を定めた。その直後に亡くなる。(「正法寺文書」) 1326年、3世・宗久は、「石清水」の「清」を避け、「清水」を「志水」に改めて伽藍を整備した。以来、志水氏の菩提寺になる。 室町時代後期、1486年頃、聖誉は10世となり、浄土宗に改めた。(「正法寺文書」) 1503年、伝誉は11世に就く。(「正法寺文書」) 1521年頃、塔頭・正寿院、光徳院などが開かれる。(「正法寺文書」) 1546年、伝誉は、第105代・後奈良天皇の帰依を受ける。勅願寺になる。 1547年、後奈良天皇より「八幡自筆尊像」「徳迎山」「正法寺」の勅額を贈られる。(「正法寺文書」) 安土・桃山時代、1589年、豊臣秀吉は、正法寺、塔頭領として八幡、清水などに寺領500石を寄進した。この頃、7つの塔頭があった。(朱印状) 1600年、徳川家康は、八幡、下奈良村に寺領500石を寄付した。(朱印状、「正法寺文書」) 江戸時代、1607年、徳川義直が尾張に封じられ、尾張藩の庇護を受ける。 1621年、鐘楼が建てられた。 1630年、1629年とも、忠継の時、徳川家康の側室・志水亀女(相応院)の寄進により、本堂、唐門を建立し、方丈を修理して再建される。志水氏、相応院の菩提寺になる。近世を通じて尾張藩の篤い庇護を受ける。領内寺院中で最も栄えた。(「正法寺文書」) 1637年、相応院は、徳川義直筆の徳川家康像を寄進する。(「正法寺文書」) 1642年、相応院が没し、その菩提寺になる。遺言により金子100両が寄進される。(「正法寺文書」) 1664年、本堂屋根、方丈などを修理した。(「正法寺文書」) 1665年、正法寺が記されている。(『扶桑京華志』) 1685年、正法寺が記された。(『京羽二重』) 1702年、正法寺が記されている。(『山州名跡志』) 1707年、19世・顕誉の時、書院が建てられた。(棟札) 1780年、境内が描かれている。(『都名所図会』) 1840年、塔頭・光徳院の客殿を移し小方丈とした。 1864年、亀山藩・松平信行の山城国中取締役就任により、正法寺・塔頭が宿所にあてられた。(「正法寺文書」) 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、石清水八幡宮の八角堂が境外堂宇として八幡大芝に移築される。以後、正法寺の境外仏堂として管理され、仏像、木像も遷され御堂内に安置される。 現代、1945年、宝物館の法雲殿が完成する。 1961年、大方丈屋根が第二室戸台風により破損する。 1983年、本堂、大方丈、小方丈、書院、唐門、鐘楼が京都府有形文化財に指定された。 1984年、本堂、大方丈、唐門が重要文化財に指定される。 1987年、書院の解体修理が行われる。 1988年、本堂の半解体修理が始まる。中門の解体修理が行われた。 1989年、庭園が京都府指定名勝に指定された。 1991年、鐘楼が解体修理、本堂の半解体修理が終わる。 1992年、「正法寺文書」が京都府有形文化財に指定される。 2008年、法雲殿が再建され、阿弥陀如来坐像が遷された。 ◆高田忠国 平安時代後期-鎌倉時代の武将・高田忠国(?-?)。詳細不明。男性。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の御家人として仕える。石清水八幡宮の社家志水氏の祖。正法寺を建立する。 ◆円誓 鎌倉時代の僧・願阿円誓(?-1263)。詳細不明。男性。父・高田忠国の次男。1191年(1192年とも)、正法寺1世。兄・国元とともに正法寺の基礎を築く。1263年、正法寺掟法を定めた。その直後に亡くなる。 ◆伝誉 室町時代の僧・伝誉(1476-1559)。詳細不明。男性。1503年、正法寺の11世。1521年、知恩寺の住持になる。1546年、第105代・後奈良天皇の帰依を受け、正法寺が勅願寺になる。83歳。 ◆志水亀女 安土・桃山時代-江戸時代前期の志水亀女(1573-1642)。女性。相応院。父・石清水八幡宮社務田中家の分家、正法寺・志水宗清。竹腰正時(定右衛門)に嫁ぎ、1591年、正信を産む。夫没後、1594年、徳川家康の側室になる。1595年、仙千代を出産するが6歳で早逝した。1612年、五郎太(義直、尾張藩初代藩主、尾張徳川家始祖)を産む。正信は、尾張藩の家老職に就いた。 家康の死後、亀女は相応院と称し、名古屋城に住した。墓は菩提寺・相応寺(名古屋市)にある。 69歳。 ◆仏像 ◈本尊の「阿弥陀如来坐像」(96.2㎝)は、鎌倉時代前期、12世紀(1101-1200)末作とみられている。来迎印を結び、結跏趺坐する。光背台座(後補)に、江戸時代前期、寛永年間(1624-1645)の修理銘が入る。木造、寄木造、彫眼、漆箔、白毫、肉髻珠。 両脇の観音菩薩は両手で蓮台を持ち跪坐する。木造、寄木造、彫眼、漆箔。勢至菩薩は合掌し跪坐する。木造、寄木造、彫眼、漆箔。阿弥陀三尊像になる。 ◈「阿弥陀如来立像」(111㎝)は、平安時代、10世紀(901-1000)作という。小さくなだらかな肉髻、目鼻立ちは小さく、天台系仏像の特徴が見られる。平安時代初期の名残りとして、裳裾、左袖下の衣文にゆるやかな渦紋が見られる。肉身部に金箔、衣部は素地になる。檜材、一木造、彫眼、漆箔、白毫、肉髻珠。 ◈法雲殿に、「阿弥陀如来坐像」(重文)を安置する。鎌倉時代前期、建保年間(1213-1219)作という。石清水八幡宮別当・善法寺祐清が願主になり造仏されたという。確証に欠けるが仏師・快慶作ともいう。かつて、石清水八幡宮の本地仏であり、男山山中の西谷、八角堂(八角院)内にあった。「一光千仏丈六阿弥陀」ともいわれた。 近代、1868年の神仏分離令後の廃仏棄釈により、八幡宮の仏堂・仏像は破却された。当時の正法寺住職が像を譲り受け、八角堂が現在地(八幡市)に移転した際に、正法寺の寺領だった西車塚古墳の上に遷される。以後、正法寺の境外仏堂として管理された。後に阿弥陀如来坐像は京都国立博物館寄託になる。現代、2008年、正法寺に法雲殿が建てられ、像は安置された。八角堂は現在は八幡市が管理する。 丈六の「阿弥陀如来像」は、像高283㎝、台座・光背を含めると480㎝の高さがある。胸の前で両手の親指と中指で輪を作る中品中生の説法印を結ぶ。かつては全体に金箔が施されていた。現在は、唇・袂などにわずかに金箔が残る。13体の化仏を反りの少ない光背に配している。 肉身部は漆箔、衣部は彩色、檜材、寄木造、彫眼。 ◈八角堂に、鎌倉時代作の「元三大師坐像」(82㎝)(重文)も安置されていた。厳しい表情をしており、平安時代の僧・慈恵大師良源(912-985)の像になる。かつて、石清水八幡宮三の鳥居近くにあった元三大師堂にあった。近代、廃仏棄釈により八角堂内に遷され、その後、京都国立博物館寄託になる。現在は「法雲殿」に安置されている。 檜材、寄木造、彩色、玉眼嵌入。 ◈地蔵堂に本尊の「地蔵菩薩坐像」、「千体地蔵尊立像」を安置している。 ◆建築 ◈「唐門」(重文)は、親柱筋の冠木虹梁間に、牡丹の透彫、桟唐戸の綿板に牡丹唐草の浮彫が施されている。御成門として使われた。四脚門、前後唐破風造、側面入母屋は例が少ないという。銅板葺、左右袖塀附属。 ◈「本堂」(重文)は、江戸時代前期、1630年頃に相応院の発願により建てられたとみられている。大棟の鬼瓦には1629年の銘が残る。内部荘厳具には1630年の銘がある。江戸時代後期、享保年間(1716-1735)、1788年頃にも屋根の葺替えが行われた。現代、1988年-1991年、半解体修理が行われる。浄土宗の建築様式であり、内部は、外陣、内陣、脇陣、後陣からなる。内陣と外陣の境は、腰高框(かまち)で仕切り結界にしている。内陣円柱は金箔張、組物に極彩色の文様を施す。700本の四周の垂木(地垂木、飛檐垂木)の先には、上下二重の金箔の「逆輪(さかわ)」を施す。箱のような形をした木製装飾品で、垂木の先端に被せられている。全国で唯一例という。7間9間、18.7m×12.2m、一重、入母屋造、銅板葺。 ◈「大方丈」(重文)は、本堂と同時に建てられたとみられている。江戸時代前期、1630年の「落慶供養文」には、その旨が記されている。東面して建つ。六間取の方丈形式(全室3室、後室3室)、後室中央は仏間になる。「上段の間」は貴人を迎える公的な部屋だった。対面所であり、床の間は西側、北側に書院、北南側に違棚と付書院が「コ」の字形になる。本来は、床の間と違棚は同じ平面上にある。桁行18.7m、梁間12.2m、一重、入母屋造、銅板葺。 ◈「小方丈」(京都府指定文化財)の建立年代は不明。江戸時代後期、1840年に塔頭・光徳院の客殿を移したという。貴人が休憩するために用いた。主室(9畳)には、床の間(大床、間口2間)、上段の間(3畳の上段、違棚、張台構)がある。次の間(10畳)がある。三方に広縁。書院形式。 ◈「書院」(京都府指定文化財)は、江戸時代中期、1707年、19世・顕誉の時に建てられた。1987年、書院の解体修理が行われる。北側の一の間には、床、付書院がある。西側、北側に広縁が付く。障子、欄間も数寄屋風になる。南に二の間がある。西に池泉の庭がある。 ◈「中門」は、江戸時代後期、1839年に勁松院の車寄席を移した。 ◈「鐘楼」(京都府指定文化財)は、江戸時代前期、1621年に建てられた。現代、1991年に解体修理される。上層の斗栱(ときょう)は、二手先で軒支輪、二軒繁垂木を支える。朱に彩色の袴腰付。梵鐘には、江戸時代前期、慶安年間(1648-1651)の銘が入る。 ◈「地蔵堂」は、室町時代後期、文明年間(1469-1486)に建立された。場所は幾度が移転しており、現在地には幕末-明治期に移された。方形造、本瓦葺。 ◆文化財 ◈「大方等大集経(光明皇后御願経)」8巻(重文)は、奈良時代作。 絹本著色「如来像」1幅(重文)は、高麗時代(13世紀)作とみられている。朱の衣を身に着け「赤釈迦」と呼ばれた。右手を垂下、左手は与願印で踏割蓮華座にに立つ。縦184.5×横86.6㎝。 ◈「手鑑(てかがみ)」1帖は、奈良時代-江戸時代の193点の名筆を集める。第45代・聖武天皇(701-756)、聖武天皇皇后・光明皇后(701-760)などが含まれる。 ◈絹本著色「石清水曼荼羅図」1幅(重文)は、鎌倉時代作になる。僧形八幡神、貴人、貴女、官人が描かれ、それぞれ八幡若宮、比売神、竹内宿禰ともいう。 ◈「後奈良天皇宸筆山号寺号額寺」2幅(京都府指定文化財)は、安土・桃山時代、1547年の天皇宸筆であり、山号「徳迎山」(唐門の扁額)、寺号「正法寺」(本堂の扁額)として掲げられている。縦93×横41㎝。 ◈「後奈良天皇綸旨」1巻(京都府指定文化財)は、安土・桃山時代、1546年に勅願寺の旨を伝えた。縦31.5×横42.3㎝。 ◈「豊臣秀吉寺領朱印状」1通(京都府指定文化財)は、安土・桃山時代、1589年に豊臣秀吉が500石を寄進した。縦46×横100.5㎝/1紙65.5㎝。 ◈「徳川家康寺領朱印状」(京都府指定文化財)は、安土・桃山時代、1600年に500石を寄進した。家康の自筆署名がある。縦46×横65.5㎝。 ◈絹本著色「円誓上人像」1幅は室町時代作。縦109.7×横54.2㎝。 ◈絹本著色「伝誉上人像」1幅は室町時代作。2段の賛があり、上段に伝誉略歴がある。縦104.1×横36.2㎝。 ◈紙本著色「徳川家康像」1幅(京都府暫定登録文化財)は江戸時代作、江戸時代前期、1637年に相応院が寄付した。徳川義直(1601-1650)筆という。家康は黒い束帯姿であり、畳上に坐る。手前両脇に狛犬が置かれている。縦123.8×横58㎝。 ◈紙本著色「相応院像」1幅は江戸時代作。左下に白衣、頭巾姿の相応院が描かれ、右上方に雲に乗る阿弥陀三尊が来迎している。縦123×横57.1㎝。 ◈紙本金地著色「洛中洛外屏風」6曲1双は、江戸時代前期、寛永期(1624-1645)、17世紀半以降作。縦109×横266.7㎝。 ◈南北朝時代の紙本著色「善導大師像」1幅、李朝の「楊貴妃観音像」1幅、南北朝時代の「阿弥陀浄土図」1幅、南北朝時代の「十王曼陀羅図」1幅。 ◈平安時代の「紺紙金字浄土三部経」4巻、室町時代-江戸時代「正法寺文書」、江戸時代の高泉筆「開山如雪文厳公塔銘并序」1巻、江戸時代の「隠元隆琦墨蹟」1巻、江戸時代の「木庵性瑫墨蹟」1幅。 ◆障壁画 ◈大方丈の金箔(金碧)障壁画「松図」8面は、江戸時代初期の狩野派による。狩野探幽、探幽に繋がる作家ともいう。金地に臥竜松が描かれている。縦78.2×横39.1㎝。 ◈「琴棋(きんき)書画図」は、狩野派によるとみられている。床の間、違棚、付書院、北側の襖2面、東側の襖4面、南側の襖2面に、金雲が繋ぎ連続して見える。松の大木、棋の人、池に浮かぶ舟などが表現されている。 ◈書院床の間の壁、襖、障子腰の水墨画は、法橋元陳斉(吉田元陳)による。 ◈「正法寺文書」9383点が、現代、1992年に京都府有形文化財に指定される。 ◆庭園 本堂南、方丈東の前庭がある。枯山水式であり、白砂、石、松などの植栽により構成される。現代、1989年、庭園が京都府指定名勝に指定された。 書院の西に庭園がある。山際を利用し段状に石が立てられている。手前に白砂、池泉には石橋が架かる。山の斜面に楓などの植栽がある。 ◆塔頭 安土・桃山時代、1600年、正法寺の塔頭として、志水町には松林庵、頸松院、正寿院、瑞雲院、松岳院、福泉院、光徳院、智福院、末寺に安心庵(安心寺として現存)、円通庵、成徳院、福寿院(現存)、宝寿庵、林香庵、慶祐庵、良福庵、地蔵院があった。(『指出帳』『男山考古録』) ◆年間行事 修正会(1月20日)、涅槃会(3月15日)、浄焚式(8月)、施餓鬼会(8月30日)、彼岸会(9月20日)、除夜会(12月31日)。 *普段は非公開、特別公開、月1回程度の公開日があります。大部分の建物、室内は撮影禁止。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大知典』、『京都府の地名』、『徳迎山 正法寺』、『仏像を旅する 京都』、『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』、『昭和京都名所図会 6 洛南』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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