法成寺跡 (京都市上京区) 
The ruins of Hojo-ji Temple
法成寺跡 法成寺跡 
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「従是東北 法成寺跡」の碑


荒神口通北にある鴨沂高校の塀、かつての法成寺の南西付近に当たる。


荒神口通南の鴨沂高校の塀、右手が御所に突き当たる。


説明板より、京都御苑は左下緑色の部分。オレンジ色が土御門邸、紫色が法成寺、石標の位置は旧境内の南西(カーキ色の上部、赤いポイント部分)に立つ。



平安時代、1057年頃の法成寺の復元予想図



法成寺の復元図、京都アスニー

 鴨川東岸、鴨沂(おうき)高等学校校庭南の塀際に法成寺(ほうじょうじ)跡の石標が立つ。平安時代中期、栄華を誇った藤原道長により建立され、200年の歳月を経て廃寺になった。
◆歴史年表 
平安時代、1018年、藤原道長は土御門第の東より鴨川までの地(寺町通、荒神口付近)に、無量寿院(京極御堂、中河御堂)を建立する。
 1020年、道長は、浄土信仰に傾倒し、奈良東大寺を模して阿弥陀堂の建築を始め、2年後に堂舎が完成した。
 1021年、金堂、講堂、五大堂が建つ。道長妻・綸子も出家し、所願の西北院が建てられる。
 1022年、落慶供養が行われる。法成寺と改められる。第68代・後一条天皇、皇太后、皇后が臨幸する。
 1024年、薬師堂を建立する。遷仏の儀では、定朝作の七仏薬師、日光、月光、六観音など15体の金色菩薩が力車に載せられた。楽人に続き、僧綱、僧ら60人が綱を曳き薬師堂に遷された。
 1025年、道長の娘・嬉子が亡くなり、阿弥陀堂で法事が行われた。菩提のために三昧堂が建てられた。太皇太后・彰子のために尼戒壇も造られた。
 1027年、釈迦堂が建立される。
 1028年、道長は、臨終に際して、無量寿院の阿弥陀如来に五色の糸を結び、弥陀の引接を信じて亡くなる。
 1030年、中門外に五重塔、上東門院御願の東北院が建てられる。
 1058年、大火により焼失した。その後、子・頼通(992-1074)、孫師実(1042-1101)により再興された。
 1079年、塔二基が再建される。一基は藤原京、本薬師寺の東塔を移す。
 1185年、大地震により被災する。
 鎌倉時代、1219年に全焼した。
 1254年、焼失し、以後再建されなかった。
 南北朝時代、1333年、阿弥陀堂が焼失し、以後、廃絶したともいう。
 近代、校舎建設の際に瓦が出土した。 
 現代、1976年-1977年、発掘調査が行われる。新しい発見はなかった。
◆藤原道長 平安時代中期の公卿・藤原道長(ふじわら の みちなが、966-1028)。摂関兼家に生まれる。法成寺殿と称した。991年、権大納言に任じられた。995年、ふたりの兄の死後、兄の子と後継争いをする。姉詮子の支援により内覧となる。右大臣・氏長者、996年、左大臣に昇る。1016年、外孫・後一条天皇即位に際し1年ほど摂政に就く。長女の彰子を一条天皇の中宮とし、その二人の孫を天皇に立てるなど、権勢をふるい、1018年、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)と詠んだ。平安京内の数カ所に土御門殿など豪邸を構えた。1019年、法印院源を戒師として出家、行願(後に行覚)と称した。1020年、自邸の土御門第の東に法成寺(御堂)を造営する。1028年、臨終に際して、阿弥陀堂の阿弥陀如来の手に五色の糸をかけ、糸の端を握って息絶えた。
◆安倍晴明 平安時代の陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい/ はるあきら/ はれあき、921-1005)。摂津国阿倍野、また、大和国桜井の安倍に生まれたともいう。大膳大夫・安倍益材、また、淡路守・安倍春材の子ともいい、 諸説ある。鎌倉時代から近代、1870年まで、陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。
 陰陽師・賀茂家の忠行・保憲父子に陰陽道、天文道を伝授されたという。唐に渡り、帰国後、陰陽道を確立したともされる。948年、大舎人。第61代・朱 雀天皇の信を得て以来、960年、天文得業生とし て第62代・村上天皇に占いを命ぜられた。972年、天文博士に任ぜられる。979年、皇太子師・貞親王(後の第65代・花山天皇)の信を得、その命によ り那智山の天狗を封ずる儀式を行った。その後も、第66代・一条天皇など6代の天皇に仕え、また藤原道長の信も得る。官職として主計寮の主計権助、左京権 大夫、穀倉院別当、播磨守などを歴任した。
 安倍氏は、賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となる。中世より伝えられる墓所の一つに、安倍晴明墓所(右京区嵯峨)がある。 
◆安倍晴明の伝承 道長は陰陽師・安倍晴明(921-1005)と知り合いだったという。晴明は、進捗状況を見るため、道長が建立中の寺を訪れた。その際に、道長の飼っている白い犬が、しきりに道長の御衣を噛んでその行く手を阻む。晴明は不可解に思い、門の下を探すと、土器二枚を合わせ、黄色い紙縒りで十字に縛った呪物が埋められていた。これは、極秘の術であり、道摩法師の仕業であるかもしれないと踏む。晴明は、紙を鳥形にして宙に投げた。紙は白鷺となり南の空へ飛んで行く。鳥は晴明の宿敵で陰陽師・蘆屋道満の家に落ち、仕掛けた本人を知らせた。(『宇治拾遺物語』)
 ただ、法成寺の建立は1020年に始まっており、この時、すでに晴明はない。登場する陰陽師は、その後継者の安倍吉平とみられている。
◆安倍吉平 平安時代の陰陽師・安倍吉平(あべ の よしひら、954?-1027)。安倍晴明の長男ともいう。異説もある。陰陽得業生から、991年、陰陽博士、993年頃、陰陽助などを務めた。993年、天文密奏の宣旨を受ける。晴明を引き継ぎ、藤原道長や藤原実資などに重用された。晴明の後継者として賀茂光栄らと共に陰陽寮を取り仕切った。
◆法成寺 法成寺は、平安京の東京極通(寺町通)を挟んで、道長の土御門第(上東門第、京極第)の東に建立された。平安京外に建てられたのは、京内での寺院建立が許されていなかったことによる。当初の寺域は2町四方(218m)だった。後に東西2町、南北3町(327m)に拡大された。北は広小路通、東は鴨川西、西は京都御所東、南は荒神口通南を占める大寺院だった。鴨沂高校の地は、当時の境内の南西付近に当たる。
 九体阿弥陀堂は東面し、桁行11間の堂の内陣に、康朝、定朝作の阿弥陀像9体が安置されていた。勢至菩薩、観音菩薩、四天王、藤原行成筆の扁額が掲げられた。東方には対峙する形で桁行15間の薬師堂が建ち、丈六の七仏薬師、一丈の日光・月光菩薩、丈六の観音、八尺の十二神将が安置されていた。金堂、講堂、薬師堂、無量寿院、十斎堂、法華三昧堂、常行三昧堂、五大堂、釈迦堂、五重塔、西北院、東北院、鐘楼、経蔵、僧坊、大湯屋、食堂、中門などが建ち並んだ。
 平安京外の東一帯に位置したため北東院と呼ばれる。境内東の鴨川から伽藍を望む姿は、宇治川から見る平等院の原型になったといわれている。
◆浄土信仰 平安時代末期、仏法衰え、末法の世になるといわれた。1052年がその始まりの年とされた。末法では、どのような修行を行っても現世での救済はないとされた。だが、源信は、ひたすら阿弥陀仏に祈念することで、阿弥陀仏が迎え、極楽に往生できると説く。貴族はこぞって、屋敷や寺院に阿弥陀堂を建立し、池泉に蓮を植え、現世での浄土の庭を再現しようとした。また、それらの景色を記憶し、観想することで、臨終の際の来迎が得られると信じていた。
 道長は阿弥陀信仰に傾倒し、法成寺内に九体阿弥陀堂(無量寿院)の建立を発願、多くの伽藍が建てられた。その規模は東西2町・南北3町に及んだ。法成寺は平等院の範となったという。 
 1027年、死に臨んで道長は、西の阿弥陀堂の九体の阿弥陀如来の手から糸を引き、自らの指に結わえ西を向いて横たわった。僧侶たちの読経の中、念仏を唱えながら往生したという。これは、「糸引き往生」と呼ばれた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都歴史案内』『平安の都』『社寺』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『続・京都史跡事典』『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』『安倍晴明・紫式部を歩く』『陰陽師 安倍晴明に出会う旅』『安倍晴明読本』『京のしあわせめぐり55』


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 法成寺跡 京都市上京区荒神口通寺町東入北側 

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