大通寺 (京都市南区)
Daitsu-ji Temple
大通寺 大通寺
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 九条大宮を下がった大通寺(だいつうじ)は、山号、院号を、万祥山遍照心院(へんじょうしんいん)という。 
 真言系単立。本尊は宝冠釈迦如来。
◆歴史年表 平安時代初期、源満仲(912-997)が、961年頃没した父・経基の墓所に一宇を建立したのが始まりともいう。
 鎌倉時代、1222年/1231年、3代将軍・源実朝の妻・西八条禅尼(信子)は、六孫王神社境内北の西八条邸内(南区)に、亡夫の菩提を弔うために遍照心院万祥山大通寺を建立した。真空(回心)を開山とし、律、真言、三論を兼学とする。尼寺ともいう。経基を祀る六孫王社を鎮守とした。
 実朝母・北条政子(1157-1225)も援助したという。女性歌人・阿仏尼(1222-1283)も入寺し、亡夫・藤原為家を供養したという。
 室町時代、幕府初代将軍・足利尊氏(1305-1358)、3代将軍・義満(1358-1408)の崇敬篤かった。
 1395年、塩小路朱雀の田地一町半をめぐり、醍醐寺・理性院と相論になる。(「東寺百合文書」)
 1413年、西八条左右京職巷所が遍昭心院領として上皇により安堵される。(「東寺百合文書」)
 安土・桃山時代、織田・豊臣氏の崇敬も集めた。
 江戸時代、真言、律、三論兼学の寺として9塔頭があり、御朱印寺領283石(280石とも)を有していた。
 1702年、大通寺の南谷照什が幕府に請い、六孫王神社を再建し当寺の鎮守社となる。大通寺は、三河源氏の血を引く徳川家の庇護を受けた。
 元禄年間(1688-1703)、塔頭も多数建立される。東は大宮、西は朱雀、南は八条、北は塩小路までの広大な寺地を有した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、六孫王神社は大通寺より分れる。その後、上知令により衰微する。
 1912年、大通寺境内への国鉄東海道線敷設工事に伴い、建物、庭園は破却、一宇は本覚寺(下京区)に移されたともいう。寺は、当地(南区)に移転し、六孫王神社は旧地(南区)に残る。
源満仲 平安時代中期の武将・源満仲(みなもと-の-みつなか、912-997)。法名は満慶、多田新発意(しんぼち)、多田満仲。清和源氏六孫王経基の子。子に頼光、頼親、頼信。第56代・清和天皇の曾孫。969年、安和の変の発端になった為平(ためひら)親王を擁し、皇太子・守平親王(第64代・円融天皇)の廃位を狙う謀反で、藤原千晴らを密告し正五位下に叙せられた。左大臣・源高明を失脚させた。以後、第62代・村上天皇、第63代・冷泉天皇、円融天皇、第65代・花山天皇のもと摂関藤原家に仕え、摂津、越前、武蔵、伊予、美濃、下野、陸奥などの国守を歴任した。左馬権頭、治部大輔、鎮守府将軍に就く。朝廷警備も担当した。多田盆地(兵庫県川西市)に所領を得て武士団を形成する。986年、花山天皇退位事件では、山科・元慶寺まで警固にあたった。987年、出家し満慶と称した。994年、大規模な盗賊追捕を一族とともに行う。86歳。
 多田源氏の祖。後代の清和源氏発展への礎を作る。左京一条に邸宅を構えた。
 遺骸は、宗廟の多田神社に葬られた。
◆西八条禅尼 鎌倉時代の女性・西八条禅尼(にしはちじょう-ぜんに、1193-1274)。信子、法名は本覚尼、八条禅尼。公家・坊門信清の娘。幕府と朝廷の融和策として、1204年、13歳で3代将軍・源実朝の御台所として鎌倉に下向した。子はなかった。1213年、和田義盛の乱で陣中が焼失し、実朝、母・政子らとともに大江広元亭に入った。1219年、実朝が鶴岡八幡宮で甥の別当・公暁に「仇討」として殺害される。その公暁も当日暗殺された。翌日、28歳で真空を師として寿福寺で出家した。京都に住み、本覚尼とも呼ばれる。1221年、承久の乱で、後鳥羽上皇()方に与した兄・坊門忠信の助命を政子に乞い聞き入れられる。1222年、亡夫菩提のために、西八条邸内に遍照心院万祥山大通寺を建てる。82歳。
阿仏尼 鎌倉時代前期-後期の歌人・阿仏尼(あぶつに、1222?-1283)。通称は右衛門佐、安嘉門院四条、越前、法号は北林禅尼など。武士・平度繁(たいら-の-のりしげ)養女/娘。夫・源顕定より離別された。14歳-15歳で後高倉上皇の第3皇女・安嘉門院(あんかもんいん)に仕える。妻ある貴人との失恋後に、出家したともいう。その後、愛人との間に2子/3子をもうけ、奈良の西大寺末尼寺・法華寺に住み慈阿弥陀仏と称した。松尾・慶政(けいせい)上人のもとに身を寄せた。1252年頃、公卿・藤原為家の娘・大納言典侍に呼ばれ、『源氏物語』の書写をした。1253年頃/1252年、為家の側室になり嵯峨に住む。その後、定覚を産む。1263年、冷泉為相(冷泉家祖)、1265年、為守を産む。1275年、夫・為家が亡くなる。この後、出家し大通寺に住んだ。尼になり阿仏尼、北林禅尼などと称した。播磨国(兵庫県)細川荘の相続をめぐり正妻、その子・為氏(二条家祖)と阿仏尼の実子・為相が遺領相論になる。当初は六波羅に訴える。1279年、阿仏尼は幕府に訴えるために鎌倉に向かう。極楽寺近く月影の谷に住んだ。その紀行・鎌倉の出来事を記した『十六夜日記』がある。鎌倉で武士らに歌を教えたという。1283年、判決を待たずに鎌倉で没したとも、大通寺で余生を送り亡くなったともいう。歌論書『夜の鶴』、失恋記『うたたね』を著し、『続古今和歌集』などに入集。61歳?。
 冷泉家の基礎を築く。没後の1313年、為相が細川荘の地頭職に決まり、母・阿仏尼の悲願達成になった。この所領争いが、歌学の二条家・京極家・冷泉家分立の一因になる。
 墓は大通寺(南区)に阿仏塚がある。鎌倉・英勝寺にもある。
◆南谷照什 江戸時代前期-中期の真言宗の僧・南谷照什(なんこく-しょうじゅう、1663-1736)。字は南谷、号は幻華。石見(いわみ)(島根県)生まれ。佐々木忠綱の子。大通寺・義洞に師事し、諸国を遊歴した。元禄・宝永年間(1688-1711)、大通寺塔頭・東林院に住した。著『楷書千字文』『克己銘』など。73歳。
 能書家、作庭家であり、関わった遍照心院大通寺の方丈、実法院、東林院の庭は『都林泉名勝図会』に描かれた。六孫王神社の復興に尽力し、第113代・東山天皇から紫を贈られた。『近世畸人伝』巻之四に取上げられている。
◆木像 本堂に源実朝木像を安置する。
◆塔頭 江戸時代には、次の塔頭があった。東林院、実法院(十万院)、清涼院、成就院、大雲院、真住院、慈眼院、多聞院、恩徳院。
◆文化財 創建時、鎌倉時代の絹本著色「善女龍王画像」(重文)、奈良国立博物館寄託。
 鎌倉時代の「醍醐雑事記」9巻、10巻(重文)、京都国立博物館寄託。
 「本覚尼置文」2巻は、1272年に82歳で書かれた。遺書になる。
 足利尊氏・義満の文書。鎌倉時代の醍醐寺・成賢の密教修法の古伝「遍口抄」、室町時代の「源実朝室置文写」、江戸時代の密教法具21点。
 阿仏尼が死に臨み阿弥陀仏に捧げたという誓言「阿仏尼真蹟」、冷泉為村寄進という「阿仏尼画像」がある。
◆『十六夜日記』 阿仏尼著の日記『十六夜日記』(1279-1280)は、阿仏尼が鎌倉に旅立ったのが、1279年10月16日だったために『十六夜日記』と名付けられた。当初は『路次記』『阿仏記』とも呼ばれた。4部よりなり、1部、2部は旅行記であり為氏の行状を恨み、子との別れを哀しむ。3部は鎌倉の仮住居、京都への贈答歌、4部は訴訟勝利を鎌倉八幡宮に祈念した長歌による。
 1275年、藤原為家没後、播磨国細川庄の土地所有権をめぐり、後妻の阿仏尼の子・為相と、先妻の子で為家長男・為氏の相続争いになる。為家は生前に当初は為氏に譲るとした。後に撤回し、為相に譲るとし譲り状を出した。為家没後、為氏は領有権を主張し土地を手放さず、為相の母・阿仏尼は幕府に訴えるために鎌倉へ向かった。「旅衣涙にそへてうつの山しぐれぬひまもさぞしぐるらん」。
◆墓 境内に阿仏塚(阿仏尼墳)という五輪石塔(1m)がある。かつて、南区八条町にあり、その後、遷されたという。 江戸時代、1749年に冷泉為村(1712-1774)が修理し、法要を営み阿仏尼の画像を寄進したという。
◆年間行事 六孫王神社の宵宮・宝永祭(例祭)・神幸祭(神輿は御旅所のある大通寺まで、四匹の鬼[青龍、白虎、朱雀、玄武]が四方を祓い清めながら先導する。寺での般若心境読経による鎮魂の後、社に還幸する)(10月9日-10日)。


*非公開
*年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『洛中洛外』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都隠れた史跡100選』、『おんなの史跡を歩く』、『京に燃えたおんな』、『京を彩った女たち』、『京に燃えた女』 、ウェブサイト「コトバンク」  


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大通寺 〒601-8437 京都市南区西九条比永城町1   075-691-1439 
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