|
|
三嶋神社 (京都市東山区) Mishima-jinja Shrine |
|
三嶋神社 | 三嶋神社 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 遥向石(影向石) ![]() 『花洛名勝図絵』、東山之部の三嶋明神社、相生の松と遥向石(赤い線内)、解説板より。 ![]() ![]() ![]() 鰻絵馬、2尾は子授祈願 ![]() ![]() 旧社殿にあった御手洗と石燈籠 |
渋谷通から細い路地を北へ入ると、住宅地に挟まれるようにして、小社・三嶋神社(みしま-じんじゃ)はある。平家ゆかりの社であり、かつては三島明神ともいわれた。旧郷社になる。 主祭神は、大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)、天津日高彦火瓊瓊杵尊(あまつひだかひこほのににぎのみこと)、木之花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の三座。 相殿神に、宇迦能御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、 素戔嗚尊(すさのおのみこと)、 軻遇突智神(かぐつちのかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ) 、菅原道真(すがわらのみちざね)が祀られている。 なお、祈願所(瀧尾神社境内、東山区本町)には、三祭神の分霊と摂社・妙見宮の祭神・天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)が祀られている。 生命、子授、安産、子預(水子慰霊)、神使が鰻であることから「うなぎ神社」として鰻、魚類、淡水魚関連業界の信仰も集めている。 安産四十一社の一つ。 ◆歴史年表 かつては、摂津国嶋下郡三島江村(高槻市)に三島鴨神社として祀られていたという。 平安時代、1160年、第77代・後白河天皇は三嶋神を敬愛し、小松内府・平重盛に勅し、愛宕郡朝岡山小松ヶ谷(三嶋嶽)に宮殿を造営させ勧請した。以後、都の巽(東南)方角の守護神になる。 1161年、後白河天皇中宮・建春門院(平滋子)は、皇子がなく憂い、三島神社に祈願した。同年に憲仁親王(後の第80代・高倉天皇)を出産する。その報恩のために平重盛に勅し、この地に三島神社を勧請したともいう。(社伝) 1174年、牛若丸(源義経)が当社に参籠し、平家追討を祈願したという。 1178年、高倉天皇中宮・平徳子(建礼門院)は、懐妊、平産のために祈願したという。 鎌倉時代、1185年、平家一族没後も安産祈願の神として信仰された。同年、御家人・千葉常胤は、洛中の盗賊捕縛を祈願したという。 1190年、源頼朝は、権大納言に任じられた慶賀に参詣したという。 1241年、社殿が焼失している。 1277年、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗が再建した。 室町時代、1567年、兵火により焼失している。 1573年、第106代・正親町天皇により再建された。 江戸時代、1677年、第112代・霊元天皇により、社殿が修繕されている。江戸時代には、上馬町(かみうま-ちょう)・下馬町(しもうま-ちょう)の鎮守社になった。 現代、2000年、負債により境内、社殿を失い、祭神は瀧尾神社に遷座された。 2002年、旧社地に社殿が再建され、還幸・還座される。 ◆建春 門院 平安時代後期の女院・建春 門院(けんしゅん-もんいん、1142-1176)。女性。名は平滋子(たいら-の-しげこ)、通称は小弁局(しょうべんのつぼね)京都の生まれ。父・兵部権大輔贈左大臣・平時信、母・民部卿藤原顕頼の娘・祐子。異母兄姉に大納言・平時忠、平清盛の妻・時子。上西門院(統子内親王、第82代・鳥羽天皇第2皇女)の女房になり、小弁局と呼ばれた。後白河上皇(第77代)の寵愛を受ける。1161年、憲仁(のりひと)親王(後の第80代・高倉天皇)を産む。1165年、憲仁が東宮になり、時忠は次代天皇の外戚として権勢を振るう。1167年、女御になる。1168年、皇子の即位に伴い皇太后宮になる。1169年、院号宣下受け、建春門院と称した。1176年、病により院号・封戸・年官年爵を辞退し受戒した。翌月、没した。35義 政治的な発言力を持ち、政権樹立に重要な役割を果たした。兄・時忠も権力を振るい、義兄・清盛の昇進を助けた。建春門院の死後、後白河法皇と平氏・清盛との関係は悪化する。 ◆安産信仰 当社には、土(万物の母)、火(万物の大気)、水(万物の源)の三つのご神徳があるという。安産、夫婦和合、子授け、避妊、水子の慰霊、あらゆる生物の出生、成育、放生守護の神という。 伝承がある。建春門院には皇子が誕生しなかった。子授けの三嶋大明神を崇敬していたという。ある時、夢中に白衣の翁が現れ、「汝に男子を授く 必ず日嗣たる可し 依って我を帝都巽の方に祀る可し」と告げた。皇位継承の男子を授けるから、帝都の巽(東南)の方角に祀れと伝えたという。その後、建春門院は懐妊し、平安時代後期-第80代・高倉天皇(1161-1181)が誕生したという。 以後、禁裏中宮、女官、庶民に至るまで安産の信仰が集まった。2000年、2003年に秋篠宮も参詣し、悠仁親王(2006-)が誕生した。 ◆文化財 剣鉾「獅子牡丹鉾」の茎銘は、江戸時代中期、1755年であり、身117.4㎝、茎42.5㎝、全長159.9㎝になる。 ◆遥向石 境内には「遥向石(ようこうせき)」(高さ2m)が祀られている。木之花開耶姫命が影向(えこう)した石といわれ、「影向石」とも呼ばれた。安産の信仰があり、古くは「安産石」「誕生石」とも称された。 伝承によれば、平安時代後期、1174年、牛若丸(源義経、1159-1189)は当社に参籠したという。その後、夢中に白髪の翁が現れ、早々に奥州に下る可べしとのご神託があった。夢より覚めて牛若丸は当社に再拝した。翁の立っていた所を見ると石がある。この石の前より奥州に旅立ったという。 以来、石は遥向石と呼ばれた。妊婦は男児の授けを祈願した。石に手を触れ腹を撫でると、牛若丸のような男児が授かると伝えられた。 江戸時代には境内に、「相生の松」といわれる2本の松があり、枝は1本につながっていた。このご神木の間に石が祀られていた。(『花洛名勝図絵』、1864)。 良縁、夫婦和合、家内安全のご神徳があるとされている。 ◆鰻信仰 祭神の大山祇大神は山の神であり、水源を司る水の神でもある。三嶋大明神は、山より下った水が海にそそぎ、再び雨になって山に水をもたらし、水源になる。水の循環を司る神という。この川と海の間を自由に動き回るのが鰻とされ、その生命力の強さから神使になった。 当社の神使は、巳蛇(みづち)、水蛇、牟奈岐(むなき、棟木のように丸くて長いもの、鰻)とされる。摂津の国の三島鴨神社には、1丈(3m)あまりの水蛇が生息していたという。伊予国の三島大社には、神池に老鰻で、耳の生えた水蛇が生息していたという。また、当社神池(音羽川)にも、数百もの鰻が生息していたという。 生物生育の神である鰻(牟奈岐)を食すると、温を保ち、痩身を防ぐ。風邪を退け、五痔、悪瘡、虫殺し、疳虫を封じ、産後の回復、母乳の増やすなどの幸徳があるとされた。また、鰻の産卵期が収穫期に重なり、五穀豊穣とも結びついた。ただ、鰻の勢いが強すぎることから、その焼く煙は草木を枯らし、妊婦がみだりに食すると、胎児も損なうとされた。また、摂津国なんばに、大神の使者という6尺(1.8m)あまりの水蛇が生息し、付近の生魚を食い尽くしたという。そのため、三嶋の神は怒り、水蛇の子縁を少なくしたともいう。 妊婦が大神に祈願する際には、鰻を一度絶ち、生鰻(鰻絵馬、3尾は安産祈願、2尾は子授祈願)を供え、御礼詣りの後に鰻を食べて産後の回復をする。かつて、祈願成就した際には、お礼に鰻を奉納した。その後、鰻を描いた絵馬を奉納するようになった。 ◆祭礼 神幸祭(9月第3日曜日)では、午後に本宮で祭典があり、子供神輿・剣鉾1基・神輿が巡幸する。 剣鉾は、菊鉾(一の鉾)は神具であり、妙法院門跡の寄進によるという。ほかに獅子牡丹鉾、松鉾があり、詳細不明ながら上馬町・下馬町が護持していたとみられる。 上馬町にテントの御旅所が設けられ、剣鉾1基が飾られる。近代、大正期(1912-1926)末期-昭和期(1926-1989)初期に鉾の巡行は途絶えた。現代、1998年頃より、東山系の鉾差しを招いて復活している。 ◆年間行事 例大祭(9月15日)、神幸祭(9月第3日曜日)、祈願所のうなぎ大祭(鰻並びに生類放生会、1954年に復活した)(10月26日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『剣鉾まつり』、『京都のご利益めぐり』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|