円明教寺 (円明寺) (京都府大山崎町) 
Emmyo-ji Temple
円明教寺 円明教寺 
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鐘楼付き山門




本堂、「しらざりきかしらの湯来のそれながら此山里にふりはてんとは」実経(『新千載集』)


本堂、扁額「薬師如来」















御茶屋池
 天王山の北東山麓の小さな集落・円明寺(えんみょうじ)地区に、円明教寺(えんみょうきょうじ)はある。かつて円明寺とも呼ばれた。境内にいまは、小さな山門と本堂しかない。山号は、医王山という。 
 東寺真言宗。本尊は、薬師如来坐像を安置する。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 奈良時代末期、修験僧・泰澄(たいちょう)が創建したともいう。当初は円明寺と称した。
 また、平安時代後期、僧・寛済は、この地を所有し、開基も寛澄によるともいう。当初は円明寺と呼ばれた。
 平安時代中期、仁海(951-1046)により中興されたともいう。
 1062年、「円明寺住僧」と記されている。寺号の初出という。(「僧忠覚譲状案」)
 中世(鎌倉時代-室町時代)まで、円明寺と呼ばれた。
 鎌倉時代、1213年、寺号が記され、天台別院・無動寺の管轄下にあった。慈円が朝仁親王に宛てた譲状になる。(「慈鎮所領譲状案」)
 1219年、後鳥羽上皇(第82代)の病気平癒のために愛染王法が修された。
 1230年、公卿・歌人の藤原定家は、公卿・西園寺公経(きんつね)とともに当寺を訪れた。その後も、定家は度々訪れた。(『明月記』)。また、寛澄(寛濟法印)より公経に譲られ、池に面して山荘が営まれたともいう。
 1231年、公卿・九条道家(公経の女婿)が方違(かたたがえ)に訪れる。
 鎌倉時代中期、道家の所有になる。多くの別荘の建物が建てられ、池庭も整備された。晩年の道家は寺に籠る。その後、4男・実経に譲られた。晩年の実経は円明寺山荘に隠棲し、円明寺殿と称される。
 1250年、実経宛の家地として「円明寺山庄」とある。(「九条道家初度惣処分状」)
 1313年、伏見法皇(第92代)、後伏見院(第93代)も行幸している。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により衰微した。
 江戸時代初期、1605年、すでに「薬師堂」と呼ばれていた。
 その後、堂のみを残して無住になる。
 元禄年間(1688-1704)、地名を区別するために、「円明教寺」、「山寺」とも呼ばれた。
 また、幕末、1864年、無住になる。観音寺より住職が遣わされ、真言宗随心院末寺になったともいう。
 近代、円明教寺と呼ばれたともいう。
◆泰澄 飛鳥時代-奈良時代初期の修験道・泰澄(たいちょう、682/693-767)。俗姓は三神、通称は越(こし)の大徳、号は神融禅師、泰澄和尚。越前国に生まれた。豪族・三神安角(みかみ-の-やすずみ)の次男。14歳の時に出家し、法澄と名乗る。越智山(おちさん)に上がり、十一面観音を念じて修行を積む。702年、第42代・文武天皇により鎮護国家の法師に任じられる。717年、霊夢の導きで弟子の浄定(きよさだ)らと越前国の白山に登り、十一面観音(妙理大菩薩、白山三峰の神)を感得した。山に3年間籠もり修行を続けた。719年より、諸国での布教活動を行う。722年、第44代・元正天皇の病気平癒を祈願し、天皇の護持僧に任じられる。その功により神融禅師の号を賜わる。725年、白山に登った行基と出会い、白山権現の由来を伝えたという。737年、疱瘡を十一面観音法を修して鎮め、泰証の号、大和尚位を贈られた。泰証を自ら泰澄に改めたという。後に越知山に帰り、木塔百万基を造り人々に与えたという。
 加賀国(当時越前国)白山を開山し、白山山岳信仰の祖とされる。大和・吉野山、京都・稲荷山で修行し、愛宕山を開く。九州・阿蘇山で奇跡を起こしたという。86歳。
◆寛済 平安時代後期の僧・寛済(?-? )。詳細不明。東寺真言宗、教王護国寺長者(管長)?。
◆西園寺公経 鎌倉時代前期の公卿・西園寺公経(さいおんじ-きんつね、1171-1244)。法名は覚勝、巴の大将とも呼ばれた。 藤原氏北家閑院流、父・藤原実宗(さねむね)の次男。妻は源頼朝姪・一条全子。1219年、源実朝死後、公経養育の外孫・九条三寅(後の頼経)を将軍後継者として鎌倉に下らせる。1221年、承久の乱で後鳥羽上皇(第82代)倒幕の動きを幕府に内通した。この頃、関東申次(かんとうもうしつぎ)になる。1222年、太政大臣、1223年、従一位に昇る。1224年、北山の地に西園寺を造営し移り、以後、西園寺殿と称された。74歳。
 琵琶、歌をよくし『新古今和歌集』以下の勅撰集に入集した。
◆九条道家 鎌倉時代の公卿・九条道家(くじょう-みちいえ、1193-1252)。法名は行恵、光明峰寺殿、東山。父は九条良経、母は一条能保の娘。1205年、左大臣、1206年、摂政、氏長者。1221年、後鳥羽上皇(第82代)討幕の挙兵である承久の乱で辞任した。子・頼経が4代将軍に就き復権する。1228年、関白、1229年、長女・藻壁門院を第86代・後堀河天皇の女御として入内させた。後に摂政。1232年、藻壁門院の産んだ第87代・四条天皇即位に伴い、外祖父として実権掌握する。1236年、東福寺建立を発願する。1238年、出家し行慧と称した。1242年、四条天皇夭逝後、次第に権勢を失う。1252年、孫の5代将軍・頼嗣が追われ失脚した。60歳。
◆一条実経 鎌倉時代中期の公卿・歌人・一条実経(いちじょう-さねつね、1223-1284)。円明寺関白、別称は円明寺殿、法名は行祚。九条道家の4男/3男。母は西園寺公経の娘・揄子(ゆし/藤原綸子)。父の寵愛を受けた。1233年、従三位、1235年、長兄・教実(のりざね)の早世後、1242年、一条室町の第を譲られる。1246年、父に解任された次兄・良実(よしざね)の後任として、左大臣から関白藤原氏長者になる。次いで第89代・後深草天皇の摂政になる。兄の前将軍・頼経が鎌倉から追われ、父・道家も失脚した。1247年、頼経に連座し、実経も罷免される。1265年、その後、良実と和解し、関白に再任された。2年後に辞任し、晩年、円明寺で過ごし円明寺殿(えんみょうじどの)と呼ばれた。『続後撰和歌集』などに収められている。歌集『円明寺(えんみょうじ)関白集』。62歳。五摂家の一条家の祖。
◆仏像 平安時代(11世紀)の木造「薬師如来坐像」、脇侍は「日光」、「月光両菩薩像」を安置する。
 平安時代(12世紀)の木造「毘沙門天立像」、鎌倉時代(12世紀)の木造「地蔵菩薩立像」がある。
◆建築 「山門」は重層になっており、二階に鐘楼が付く。
 「梵鐘」は、第二次世界大戦の金属の戦時供出以後再興されていない。
◆遺構 門前南に広がる御茶屋池(九条池)は山荘苑池の遺構という。
 付近の旧家に山荘庭石の遺構とされるものがある。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明板、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『京都おとくに歴史を歩く』、『水無瀬神宮と周辺の史跡』 、ウェブサイト「コトバンク」


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円明教寺 〒618-0091 京都府乙訓郡大山崎町円明寺薬師前35 
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