離宮八幡宮 (大山崎町)
Rikyu-hachimangu Shrine
離宮八幡宮 離宮八幡宮
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中門(四脚門惣門(高麗門)、大山崎町指定文化財










本殿・拝殿





本殿(左)、拝殿



右より武内社、天照皇太神社、蛭子神社、鹿島神社、気比宮



右より、住吉神社、高天宮神社、稲荷神社





右より、小禅師宮、勝手神社





腰掛天神社、菅原道真が左遷(901)された折、西国街道脇のこの石に坐して休憩したという。「君がすむ宿のこずゑのゆくゆくと隠るるまでにかへりみしやは」(拾遺351)と詠じたという。
 天王山と男山に挟まれた狭地の山崎では、宇治川、木津川、桂川の三川が合流している。この地は古くより港として、また、山陽道の宿駅として栄えた。 
 天王山の南麓、旧西国街道に面して、離宮八幡宮(りきゅう はちまんぐう)はある。石清水八幡宮(八幡市)の元社とされ、深いかかわりがある。一時は広大な神領を有し、「西の日光」と称えられた。旧府社。
 祭神は 第15代・応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう/じんぐこうごう)、酒解大神(さかとけのおおかみ、大山祗命<おおやまつみのみこと>)、姫三神の田心姫神(たごりひめ)、湍津姫神(たぎつひめ)、市杵島姫神(いちきしまひめ)を祀る。
歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、859年、第56代・清和天皇の頃(在位858-876)とも、奈良・大安寺(だいあんじ)の僧・行教(ぎょうきょう)は宇佐宮に赴き、都へ帰る途中で、山崎津で夜の山に霊光を見たという。この地を掘ると岩間から清水が湧き、「石清水八幡宮」を創建したという。その後、神霊は男山に分祀された。当初はこの地に神霊が祀られたともいう。石清水八幡宮の元宮として祀られていたとみられている。(『岩清水八幡宮護国寺略記』「離宮八幡宮文書」)
 第50代・桓武天皇(在位781-806)、第52代・嵯峨天皇(在位809-823)の行幸の際に行宮(あんぐう/かりみや、一時的な宮殿)があり、「山崎離宮」「河陽宮(かやのみや)」と呼ばれた。
 第56代・清和天皇の頃(在位858-876)、貞観年間(859-877)とも、当宮神主が長木(方油器、油木)により搾油し、神祀りの灯火に用いる。日本での製油の始まりという。
 室町時代、「離宮宮前」と呼ばれていた。
 1392年、足利義満は御教書を下し、社領(東は円明寺、西は水無瀬川)を定め、課役を減じた。
 文明年間(1469-1487)、社殿が建立される。
 安土・桃山時代、1582年、豊臣秀吉は大山崎に五か条の掟書を下し、当宮の油座、麹座、買得田の既得権を保証した。(『豊臣秀吉条々』)
 1601年、徳川家康は社領700石を寄進した。
 江戸時代、禄高930余石、守護不入の地とされた。
 1613年、京都所司代は制札により社領を安堵する。
 1633年、徳川家光は、勝竜寺城城主・永井直清に命じ、社殿を造替させる。(『徳川実記』)
 1634年、境内が拡張された。
 1635年、幕府の命により永井氏は社殿の大修理を行う。3代将軍・徳川家光を迎え、造替の落成式を行う。
 1635年、官費により社殿が完成する。(「松田繁太郎文書」)
 1670年、風水害で崩壊する。
 1695年、再建された。
 1697年、岩清水八幡宮との間に呼称、支配関係についての対立が起こる。京都町奉行所への訴陳は、以後、当宮が「岩清水」の三文字を使用しないとの判決が下る。(「岩清水文書」)
 1864年、禁門の変(蛤御門の変)では、境内が長州軍の屯所になり社殿が被災している。
 近代、1868年、神仏分離令により境内が減じる。
 1871年、1877年、1875年とも、開通した東海道本線により境内は三分の一に狭められた。
 1929年以降、現在の社殿が再建される。
 現代、1985年、日使頭祭が復活した。
◆伝承 創建にまつわる伝承がある。
 第56代・清和天皇に霊夢があり、身体に太陽が宿った。宇佐八幡宮を京都へ遷すようにと神告される。859年、奈良・大安寺(だいあんじ)の僧・行教(ぎょうきょう、生没年不詳)は、宇佐宮に赴き、大乗経典を転読し、六時不断真言密教を誦念した。
 行教が京都へ帰る途中、八幡大神より「吾れ近都に移座して国家を鎮護せん」とのお告げを受けた。船上で、金色の鳩が柱に止まり光を放った。すると、行教の袖に弥勒菩薩の影が映ったという。淀川から離宮八幡宮に達したため、第52代・嵯峨天皇の離宮跡というこの地に寄宿した。当初はこの地に神霊が祀られたともいう。そのため、「元宮」として信仰された。
 また、行教が帰京の際に、山崎の津で、夜に神降山に霊光を見た。その場所を掘ると岩間に清水が湧いた。このため、現在地にご神体を祀り社を建てたという。
 さらに、行教がご神体を祀る場所を問うと、夜に、「石清水男山の峯なり」とのお告げが再びあった。男山の頂には、光り輝く物が見えたという。行教は翌朝、男山に登ると、3日間祈念し現在の石清水八幡宮の地に神霊を祀ったという。
◆離宮八幡 この地には山崎駅が置かれ、人馬継立、宿所などもあった。江戸時代、寛永年間(1624-1643)までは、「八幡離宮」「山崎離宮」と呼ばれていた。その後、「離宮八幡」と呼ばれるようになる。
 この離宮とは、平安時代の第50代・桓武天皇、第52代・嵯峨天皇の行幸の際の、行宮(あんぐう/かりみや、一時的な宮殿)を意味した。813年以来営まれた「山崎離宮」「河陽宮(かやのみや/かわなみのみや)」に因むという。かつての山崎駅の建物が、離宮に整備されたという。
 嵯峨天皇は、唐風に憧れていた。河陽宮の「河陽」とは、河の北を意味する。淀川を黄河に見立て、その北に位置していることから名付けられた。交野(かたの)には宮廷の狩猟地があり、その山荘として利用されている。度々詩会も催されていた。離宮の南門からは、淀川に架かる山崎橋、往来する船筏が見えていた。814年にも嵯峨天皇が行幸している。主殿は瓦葺、高層の楼閣もあった。
 861年以来、山城国は国府として使用している。
◆油座 この地は、日本における製油発祥地とされている。
 平安時代前期、第56代・清和天皇の頃(在位858-876)、また、貞観年間(859-877)、当宮神主が「長木(方油器、油木)」を神示により生みだしたという。搾油し、神祀りの灯火に用いた。朝廷は「油祖」の名を贈り、以来、油座本所になる。油の神として信仰された。
 東南アジア原産のシソ科の一年草「荏胡麻(えごま)」を原料とした「荏胡麻油」の製油は、「大山崎油座」を形成する。油座は、西国からの原料の仕入、油の製造、販売権も独占し、内殿灯油の納入の代わりに免税の特権も有した。
 平安時代後期、山崎には、内殿灯油を特権的に扱う神人(じにん/じんにん)が存在し、商いを行った。神人は、石清水八幡宮の支配下にあり、燈明用油を納め、日使(ひのとう/ひのつかい)神事(4月3日)の頭役の奉仕も行う。この神事は、天皇の使いが当宮より、石清水八幡宮に詣でた。最盛期には、藤花で飾られた50余りの船を仕立てた。
 鎌倉時代後期、神人は京都に進出する。1222年、六波羅探題は、不破関所通過料を免除する特権を与えた。
 南北朝時代、1392年、足利義満は、大山崎全域を「守護不入の地」とする御教書を与えた。次第に、石清水八幡宮の支配が強まり、抗する神人は石清水八幡宮に神輿振りを行う。
 室町時代、 幕府より油の専売件を与えられ、全国の油屋は一年更新の販売権を当宮に収めた。このため、当宮も山崎も大いに栄え、「西の日光」と謳われた。神人による自治都市が形成され、次第に武装化する。
 だが、応仁・文明の乱(1467-1477)以後、徐々に衰微した。
 美濃の武将・斉藤道三(1494?-1556)は若い頃、この地で油売りの商人をしていたともいう。関わったのは、その父・長井新左衛門尉(豊後守)ともいう。
 安土・桃山時代、1587年の山崎の合戦以後、羽柴秀吉は神人を保護した。
 江戸時代、山崎の油業は大坂の菜種、綿実に取って代わられ次第に衰微する。離宮八幡宮の社領(水無瀬、円明寺)は幕府により確保される。神人は社家(江戸時代初期に120人)に変わった。社家代表の6人の当職(とうしき)は、神事、祭礼、神領の自治行政を執り行う。実務は社役人が当った。町には、11の保(ほ)といわれる行政区が置かれ、社家は貫主(かんしゅ)という行政責任者に就いた。町人の代表は、町年寄、組頭を組織した。
 近代に入り、油座、社家は消滅した。
◆建築 表門、神饌所、神輿倉、拝殿、本殿、集古館、社務所などが建つ。現在の社殿は、近代、1929年以降に再建された。
 「中門」(大山崎町指定文化財)は、四脚門惣門(高麗門)。
  「本殿」は八幡造になる。
◆文化財 鎌倉時代-江戸時代、1634年-1635年頃の「離宮八幡宮文書」350点(重文) 。
 関係文書24巻、1冊。製油器具。
 江戸時代の「八幡宮神領傍示石」(大山崎町有形文化財)2基は、かつて社領境に立てられていた。
 「従是西八幡宮御神領 守護不入之所」の巨大な石標は表門脇に立てられている。守護役人もみだりに境内に出入りできなかった。
かしき石 境内に「かしき石(扇形石)」(大山崎町有形文化財)といわれる石が置かれている。奈良時代の塔心礎(とうしんそ)という。相応寺(そうおうじ)の三重塔の心礎とされている。また、それ以前の古代寺院ともいう。かつて、当社の門前にあり、その後、現在地に移された。後世、手水鉢に再利用する際に彫られた窪み(深さ45㎝)が残っている。高さ1m、長さ2m。
 山崎には、8世紀半に、僧正・壱演が建立したという相応寺があった。木工寮が造営した。境内の北は山陽道、東は山崎橋へ至る道、南は淀川に囲まれていた。寺は平安時代の紀貫之『土佐日記』(935?)にも記され、山崎津で船を止めた。寺の岸の畔には柳が多く植えられていたという。
◆四角四境祭 平安時代、平安京を清浄にするために四角四境(堺)祭が執り行われていた。東海道の逢坂、山陰道の大枝、東山道の和邇、そしてこの付近の山陽道の山崎が選ばれた。
◆山城国府 山城国府は、794年平安京遷都後に長岡京南に置かれた。その後、離宮八幡宮北部周辺に移される。この周辺では、平安時代初頭から後期の遺物が出土している。
◆連歌 
室町時代、1502年、俳人・連歌師・山崎宗鑑(やまざき そうかん、1460頃?-1540頃)が山崎に居住した。天王山下の竹林に庵を結び隠棲したという。離宮八幡宮社頭での月例会の上下連歌会を指導し、庵での霊泉連歌講を主催していた。
◆日使頭祭 祭礼の「日使頭祭(ひのとうさい)」では、「日使頭(ひのかしら)」により、油入りの小皿に灯った火を神前に奉納、湯立ての神事、八幡太鼓が披露される。
 日使頭祭は、離宮より男山への遷幸の儀式で、勅使が当宮に詣り、淀川を舟渡りして男山に参拝した。室町時代には、50隻の船が川を渡御したという。鴨社の「葵祭(北祭)」に対して、「南祭」と称えられ、葵に対して藤の花をかざした。日使頭を勤める人を「日の長者」と称した。初めは神職が就き、後に八幡宮の油座の神人(江戸時代には社家と呼ばれた)が奉仕した。日使頭人は、天皇の前でも騎乗が許された。
 祭りは江戸時代も続けられ、近代以降に廃絶する。その後、油祖離宮八幡宮崇敬会(1985)により復活した。
◆年間行事 日使頭祭(ひのとうさい)(4月3日)、放生会(8月15日)、例祭(9月15日)。
 

*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 下』『京都・山城寺院神社大事典』『京都おとくに歴史を歩く』『昭和京都名所図会 6 洛南』『洛中洛外』『全国八幡神社名鑑』『京都の寺社505を歩く 下』『庭を読み解く』『週刊 京都を歩く 41 伏見・大山崎』



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高良社

手水鉢、江戸時代、1635年、勝竜寺城城主・永井直清の造営により社殿が完成する。その際に、永井が奉献した手水という。林羅山は漢詩に詠み「一掬洗心」と称えた。

石清水、平安時代初期、僧・行教は、山崎津で夜の山に霊光を見たという。この地を掘ると岩間から清水が湧き、「石清水八幡宮」を創建したという。

石清水、いまも湧き出している。

かしき石(扇形石)

油祖像

「本邦製油発祥地」の碑

油脂販売業者の店頭標識(1957)
 離宮八幡宮 〒618-0071 乙訓郡大山崎町字大山崎小字西谷21  075-956-0218
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