龍雲寺 (桃山善光寺) (京都市伏見区) 
Ryuun-ji Temple
 龍雲寺   龍雲寺
 Home  Home









本堂


本堂、山号扁額「雨宝山」



本堂、除不動明王、十一面観世音、元三慈恵大師像(良源、912-985)を安置する。


厄除不動尊



厄除不動尊



地蔵尊



地蔵尊



地蔵尊





南無地蔵尊



南無地蔵尊
 龍雲寺(りゅううんじ)は、西に伏見市内を見下ろす丘陵地にある。境内には江戸時代末、鳥羽・伏見の戦いの際に、薩摩軍の大砲が置かれた。 
 「桃山善光寺(桃山の善光寺)」、「新善光寺」ともいう。山号は雨宝山という。
 天台宗、本尊は信濃善光寺の阿弥陀三尊の模刻像を安置する。
 全国善光寺会のひとつ。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 かつて、現在地の北東、深草大亀谷敦賀町にあった。
 江戸時代、1715年、伏見奉行・石川備中守総乗(珍恭和尚)が、第5代将軍・徳川綱吉の念持仏である観音像を本尊とし、三河屋敷町(桃山町三河、現在地の南東)の高台に中興する。以来、安土・桃山時代、1600年に伏見城で討死した鳥居元忠ら300余人の菩提寺になる。
 1796年、信州・善光寺の一光三尊仏阿弥陀如来像の開帳が当寺で行われる。その後、信徒の要望により三尊像を模刻し寺に安置した。以後、桃山善光寺、新善光寺と呼ばれる。
 1868年、1月、鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の砲兵隊長・大山巌は現在の境内に陣地を置く。この地より、伏見奉行所(讃岐町)に布陣した幕府軍の会津藩、新撰組を砲撃した。
 近代、1884年、本堂が焼失する。
 1894年、現在地付近一帯が天皇御料地(明治天皇陵、伏見桃山陵)として買い上げられる。
 1898年、旧地の北西の現在地(毛利長門町)に移転する。
◆石川総乗 江戸時代の旗本・石川総乗(いしかわ ふさのり、1663-1720)。詳細不明。石川義当(よしまさ)の子。江戸時代の旗本。1702年、従五位下備中守に叙任、1710年、小姓組番頭、1712年、書院組番頭、1714年、伏見奉行に任じられる。珍恭和尚ともいう。
◆鳥居元忠 室町時代-安土・桃山時代の武将・鳥居元忠(とりい もとただ、1539-1600)。三河国に生まれた。彦右衛門尉とも称した。徳川家康に仕え、家康の三河統一後は旗本先手役になる。1572年、家督を継ぐ。1582年、天正壬午の乱での戦功により、家康は甲斐国の谷村城主に任じた。1600年、家康が会津へ出兵後、伏見城を預けられる。五奉行中の石田三成らが家康に対して挙兵した伏見城の戦いでは、元忠は1800人の兵力で城に立て籠もる。13日間の攻防の末、鈴木重朝との一騎打ちにより討死した。その際の血染めの床板は、「血天井」として各所に残る。戦は関ヶ原の戦いの前哨戦に なった。
 墓所は百万遍知恩寺などにある。
◆大山巌 江戸時代後期-近代の軍人・政治家の大山巌(おおやま いわお、1842-1916)。薩摩国に生まれる。薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男。1862年、寺田屋事件で鎮圧され、帰国謹慎処分になる。1863年、薩英戦争後、幕臣・江川英龍より砲術を学ぶ。新式銃隊により、1868年、鳥羽・伏見の戦い、会津戦争などを転戦した。砲も設計し「弥助砲」と称された。1869年、渡欧、1870年から6年間ジュネーヴに留学した。1877年、西南戦争、日清戦争(1894-1895)で陸軍大将、日露戦争(1904-1905)で元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任した。「陸の大山、海の東郷」といわれた。陸軍大臣、参謀総長、内大臣、元老を歴任した。
◆服部雄吉 近代の軍人・服部雄吉(はっとり ゆうきち、1863-1900)。薩摩鹿児島藩士の子。海軍兵学校卒。1894年-1895年、日清戦争で軍艦秋津洲の砲術長として参戦、後に海軍中佐となる。1900年、中国の義和団の乱で、連合軍と協力し太沽砲台を攻撃、戦死した。
◆仏像・木像 本堂に本尊の「一光三尊善光寺仏」を安置する。信州善光寺の模刻とされる。このため、当寺は「新善行寺」とも呼ばれている。
 厄除不動明王、十一面観世音、元三慈恵大師像(良源、912-985)を安置する。 
◆建築
 「本堂」は、醍醐寺塔頭(密教院とも)を移築したという。
 「山門」は、江戸時代、1715年の創建時の建立による。
 かつてあった「鐘楼堂」は、1953年に靖國寺(宇治市)に移転改築された。宇治川先陣の佐々木高綱の京孫某・伏見奉行所代官が、伏見城落城の際の戦没者を供養するために、桃山城の遺材 により桃山御殿跡(桃山宇治見山)に建立したという。その後、桃山御御陵造営に伴い、龍雲寺に移築され、靖國寺に再移築された。間口2 間、四方総欅造。
◆文化財 本堂仏間に、江戸時代の文人画家、儒学者・富岡鉄斎(1837-1924)筆の襖絵「猿猴(えんこう)月を掬(すく)う図」「十六羅漢図」がある。
 江戸時代の絵師・長沢芦雪(ながさわ ろせつ、1754-1799)、江戸時代の狂歌師・戯作家・大田蜀山人(1749-1823) 筆跡などがある。
◆十津川郷士 境内の一角に十津川郷士(とつがわごうし)の墓87基がある。
 1868年、明治新政府は伏見奉行所跡地に伏見練兵場を開設した。フランス式の陸軍士官養成のためであり、国民皆兵により募集した兵士は、「伏見親兵」と呼ばれた。兵は戊辰戦争(1868-1869)に従軍し、東海、北越、函館の戦地に送られた。1871年、兵部省直属の親兵隊に改編される。墓は、幕末の尊王攘夷派、十津川郷士の戦病死者のものが多い。(「史跡庭園由来」の碑文より)
 十津川郷士は、大和国吉野郡十津川地方に住した。古くより朝廷に仕え、南北朝時代(1333-1392)には南朝に付く。安土・桃山時代、1587年の太閤検地で年貢赦免地になり、以後、郷士資格が与えられた。江戸時代後期、願い出て、1863年に朝廷の直轄地に編入になる。以来、御所警護に当たり十津川親兵隊と呼ばれた。1863年の天誅組の変にも参加、その後離脱した。1864年の蛤御門の変、1868年の鳥羽・伏見の戦い、その後1869年まで続く戊辰戦争にも参戦した。ただ、戦力の近代化には遅れをとる。1869年、急進開国派の横井小楠暗殺事件なども起こしている。その後、伏見親兵に編入された。
◆墓
 十津川郷士(とつがわごうし)の墓、87基がある。
 軍人・服部雄吉、軍人・服部直彦の兄弟の墓がある。直彦は、陸軍中佐であり、1904年-1905年の日露戦争で旅順で戦死した。
◆年間行事 初不動尊(1月28日)、彼岸会墓地回向(春)、大般若会(4月15日)、十夜会(施餓鬼)(10月15日)、終不動尊(12月28日)、彼岸会墓地回向(秋)、不動護摩供(毎月28日)。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*参考文献 『京都大事典』『新選組と幕末の京都』『昭和京都名所図会 6 洛南』 、ウェブサイト「コトバンク」  


関連・周辺伏見奉行所跡・伏見工兵第十六大隊跡     周辺     関連靖國寺       

南無地蔵尊

鐘楼

庫裏

手水舎


「一隅を照らす 伝教大師聖詞」の碑

宝篋印塔

史跡庭園由来」の碑文、十津川郷士の墓について記されている。

十津川郷士の墓、2002年に新たに整備された。

境内よりの伏見市内の眺望、墓の向こうに桃陵団地が見える。かつてここに伏見奉行所が置かれた。江戸時代末、1868年の鳥羽・伏見の戦いの際には幕府軍が布陣する。現在の境内に薩摩軍の大砲が置かれ、この高台より奉行所を砲撃している。
龍雲寺 〒612-0063 京都市伏見区桃山毛利長門町   075-611-4854
 Home    Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光