善能寺 〔泉涌寺〕 (京都市東山区)
Zenno-ji Temple
善能寺  善能寺
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「日本最初稲荷神石社」の碑











祥空殿




祥空殿








日本最初稲荷神石社


稲荷大神


弁財天


「南無観世音 藤はようらく(揺落)空に散る」、俳人・荻原井泉水の句碑。


庭園「遊仙苑」






サザンカ



ムラサキシキブ



雲紋築山、雲とも飛行機の形を象ったともいわれている。かつては白砂敷きに苔地の築山となっていたという。



航空機にも見える立石の石橋。
 善能寺(ぜんのうじ)は、泉涌寺塔頭の一つに数えられる。古くは、「二階堂」とも称された。 
 真言宗泉涌寺派、本尊は阿弥陀如来像を安置する。
 本堂の聖観世音菩薩は、洛陽三十三観音巡礼第18番札所になる。御朱印は泉涌寺で授けられる。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、823年/806年、弘法大師空海の開創ともいう。稲荷大明神を祀り善能寺と号した。もとは、西八条北猪熊(下京区二階堂町)にあったという。東寺の東であり、稲荷神の本地仏・聖観音を祀る二階堂の後身という。以来、洛陽観音霊場の一つとして崇敬された。
 第52代・嵯峨天皇(在位: 809-823)の勅願寺になる。二階堂(二階観音堂)と称し、聖観音を本尊にした。
 第51代・平城天皇(在位: 806-809)の勅願所になる。
 室町時代、1545年、第88代・後嵯峨天皇の勅命により、泉涌寺に移り塔頭の一つになった。(『坊目誌』)
 また、1551年/1555年、第105代・後奈良天皇の勅命により、山内(今熊野観音寺の西北)に護持院として移転したともいう。
 江戸時代、元和年間(1615-1624)、安楽光院が泉涌寺塔頭としてこの地に再建されたという。もとは、西洞院上立売北(上京区)にあり、室町時代、1475年に焼失する。その後、この地の安楽光院は廃絶した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃する。
 1887年、善能寺は現在地に移り、再興された。
 現代、1971年、北海道で遭難した航空機「ばんだい号」犠牲者遺族の谷本氏が、犠牲者の冥福と航空機事故絶無を願い、本堂(祥空殿)を寄進し、建立した。
 1972年、作庭家・重森三玲により池泉式庭園「遊仙苑」が作庭された。
◆空海 奈良時代-平安時代前期の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。俗姓は佐伯氏、幼名は真魚(まお) 、灌頂名は遍照金剛、弘法大師。讃岐国(香川県)に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め、四国の大滝岳、室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥になり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都になる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり東峰に葬られた。62歳。
 空海は、中国から真言密教をもたらし、日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)とともに、奈良仏教から平安仏教への礎を築いた。空海による真言密教の拠点は、東寺のほかに高野山、宮中の真言院の三寺ある。空海の真言密教の神髄は、大日如来の教えに従い、あらゆる存在、性質、思考は、宇宙の絶対者である毘盧遮那仏が姿を変えたものであるとした。第52代・嵯峨天皇、橘逸勢と共に「三筆」の一人として数えられている。東寺境内に日本最初の私立学校「綜芸種智院」も創立した。唐で学んだ土木技術により、各所で灌漑、土木工事などを行い、祈雨の伝承も残っている。
◆重森三玲 近現代の作庭家・重森三玲(しげもり-みれい、1896-1975)。計夫(かずお)。岡山に生まれる。1911年、15歳で茶道、華道を学ぶ。1914年、18歳で茶室・露地を設計する。1917年、日本美術学校で日本画を学び、生花、茶道を習得、文化・芸術のみならず、宗教・哲学にも関心があった。1922年、文化大学院の創設を企図する。結婚する。1923年、関東大震災に被災し岡山に還る。1926年、フランスのミレーに憧れ、自ら三玲に改名した。1929年、美術研究、思想的発展のためとして京都に移る。1931年、日本花道芸術学園を設立する。1932年、日本庭園の研究団体、京都林泉協会の会長職に就く。華道草月流の創始者、勅使河原蒼風(1900-1979)らと生花の革新を唱える。1933年、「新興いけばな宣言」を起草した。1934年、室戸台風で各地の庭園が被災し、1936年-1938年、全国の庭園の精緻な実測調査(300カ所以上)を行う。1949年、前衛的な生花の創作集団「白東社」を主宰し、前衛生花作家・華道家の中川幸夫(1918-2012)も参加した。1950年頃から、アメリカ人の彫刻家、画家のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904-1988)とも交流を深めた。78歳。
 庭園については、全国の200あまりの作庭に関わる。本格的に作庭した京都では、東福寺方丈庭園(1943)に始まり、京都林泉協会30周年記念の瑞峯院庭園(1961)、最後の作庭は松尾大社庭園(1975)になった。「永遠のモダン」を目指した。
 1936年以来、独自に行った全国の庭園の実地調査を行う。それらの結果をまとめた第1次調査『日本庭園史図鑑』(全26巻、1939年完)、1971年からの第2次調査『日本庭園史大系』(全35巻、1976年完)が刊行されている。実測図は、1955年、金閣寺再建、2011年、東日本大震災後の被災した庭園修復にも参考にされた。
◆荻原井泉水 近現代の俳人・荻原井泉水(おぎわら-せいせんすい、1884-1976)。名は藤吉、別号に愛桜、随翁。東京に生まれた。河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加し、1911年、自由律俳誌「層雲」を創刊する。のち碧梧桐と対立、無定型自由律俳句を唱えた。門下に種田山頭火、尾崎放哉がいる。91歳。
◆仏像 ◈「阿弥陀如来坐像」は、平安時代後期作になる。上品上生印を結ぶ。木造、漆箔。
 ◈本尊の「聖観世音菩薩」は、左手に蓮の蕾を持つ。像高1m、本尊の周囲を、ばんだい号犠牲者の位牌が囲む。
 ◈陀枳尼天尊天を祀る最初の寺院ともいう。国稲荷神の本地仏としての信仰がある。
◆建築 「本堂(祥空殿)」は、1971年に、航空機事故で亡くなった人々の霊を慰めるために、遺族篤志家・谷本氏の寄進により建立された。方三間、宝形造、相輪は宝珠、五輪。
◆ばんだい号墜落事故 1971年、風雨の中、函館空港に着陸直前だった東亜国内航空のYS-11機は、郊外の横津岳に墜落した。事故原因については不明とされている。運航乗務員2人、客室乗務員2人、乗客64人の計68人が犠牲になった。
 なお、1966年に富士山麓に墜落したBOAC機の犠牲者24人、1971年に岩手県雫石町で、自衛隊機と接触し墜落した全日空機の犠牲者162人も供養されている
◆稲荷神石社 境内に、稲荷大神を祀る「日本最初稲荷神石社」という祠社がある。空海が祀ったという。
 逸話がある。平安時代、823年、空海は東寺南門で、稲を背負った老翁と出遭う。翁は自らを、八条の二階観音堂に住する柴守長者と名乗る。無者に福を与え、空海の仏法を守護するという。空海は喜び、赤飯を供し法華経を講じた。以後、長者を稲荷大明神と尊称し、観音堂を善能寺と改めた。本尊を聖観音とし、稲荷社も祀って供養したという。
◆庭園 池泉式庭園の「遊仙苑」は、1972年に重森三玲により作庭された。池泉式庭園の作庭は重森としては珍しいという。蓬莱神仙の庭は、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土・桃山時代の各庭園様式手法が組み合わされている。なお、庫裏が建てられることを前提として作庭されたという。
 森を背にして、池、築山、龍門瀑、石橋、白砂、苔地、飛石、植栽などで構成されている。青石による立石が護岸として組まれ、石が林立し、龍門瀑も組まれている。池庭の地割は州浜型になる。
 三玲は、「飛行機が幾千万の山海上空を飛翔し、窓外に各地の山岳や平野を俯瞰する景観を全庭に畳んだ」と述べている。
◆光照院・持明院・安楽光院 平安時代後期、光照院境内(上京区)を含む地に、公家・武人の藤原基頼(ふじわら-の-もとより、1040-1122)の邸宅があった。
 持明院は、その邸内に基通が安楽光院という持仏堂を建立したことに始まる。後に持明院と改称された。室町時代、1353年に持明院は焼失する。安楽光院 は残る。1475年にも持明院は焼失している。その後、再建されることはなく、跡地に、室町時代、1477年に光照院が移転した。
 なお、安楽光院は、泉涌寺塔頭・来迎院(東山区)に合併されたという。また、江戸時代、元和年間(1615-1624)、安楽光院が泉涌寺塔頭としてこの地に再建されたともいう。その後、安楽光院は廃絶したともいう。
◆句碑 境内に俳人・荻原井泉水(おぎわら-せいせんすい)の句碑「南無観世音 藤はようらく(揺落)空に散る」が立つ。 手向けの供養句碑という。石組は重森三玲による。白砂に立てられた句碑を石組に入れ、四方正面の三尊石組になる。
◆墓 冷泉家の祖・藤原長家(1005-1064)の墓は善能寺裏山にある。御子左家(みこひだりけ)になる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都市の地名』、『古寺巡礼 京都 27 泉涌寺』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都観音めぐり』、『京都大事典』、『重森三玲 庭園の全貌』、『重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』、『重森三玲 モダン枯山水』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都の隠れた御朱印ブック』


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善能寺 〒605-0977 京都市東山区泉涌寺山内町  075-561-1551
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