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賀茂波爾神社 (赤の宮神社) (京都市左京区) Kamohani-jinja Shrine |
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賀茂波爾神社 (赤の宮神社) | 賀茂波爾神社 (赤の宮神社) | |
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![]() ![]() 「官幣大社 賀茂御祖神社摂社 賀茂波爾神社」の社号石標 ![]() ![]() ![]() ![]() 舞殿 ![]() 神紋 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 末社・権九郎稲荷社 ![]() 末社・権九郎稲荷社 ![]() ![]() ![]() ![]() 末社・権九郎稲荷社、祭神は宇莫迦之御魂神 ![]() 権九郎稲荷社 ![]() ![]() ![]() ![]() 名水「波璽井御神水」「御薬水」は、今も湧き出している。 ![]() ![]() ![]() 高野川開墾歴史碑 ![]() 境内にはクスノキの大木が残る。 ![]() イチョウ ![]() 御蔭祭 ![]() 御蔭祭 ![]() 【参照】近くを流れる白川疏水(琵琶湖疏水白川分線) ![]() 【参照】付近の「赤ノ宮町」の地名 |
高野川の河畔にある賀茂波爾神社(かもはに/かものはに-の-じんじゃ)は、旧田中村(高野)の産土神だった。 下鴨神社の境外摂社であり、近代以前は「村社 波爾神社」、「赤宮(あかのみや)神社」、「赤宮稲荷大明神」、「赤の宮さん」とも呼ばれた。 祭神は波爾安日子神(はにやすひこのかみ、武埴安彦命)、波爾安日女神(はにやすひめのかみ、武埴安彦姫命)を祀る。土壌を司る男女の神(対偶神)になる。また、玉依彦命(西埿部氏の祖)、野見宿禰(土師氏の祖)ともいう。旧村社。 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座 大八座 小十三座」の「賀茂波爾神社」に比定されている。 大地守護、万物の生成発展、殖産興、方除、火災・災難・疫病・厄除けなどの信仰がある。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 平安時代、901年以前、すでに祀られていたという。(社伝)。神祭用の土器を作る集団により奉祭されたという。鎮座地は不明という。赤の宮神社、上賀茂神社境内摂社・土師尾社が前身ともいう。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)/江戸時代、「赤宮稲荷大明神」と呼ばれ、稲荷社とされていた。稲荷神、迦遇突智神(かぐつちのかみ)も併せて祀られていたという。(社伝) 江戸時代、1671年以前/1679年、現在地に遷された。 1855年、現在の本殿が造営される。 1868年、「赤の宮稲荷大明神」と記されている。社地は南北50間、東西30間あった。(『太政官神祇局調』) 近代、1877年、祭神に波爾安日子神、波爾安日女神を祀り、「波爾神社」、「赤の宮」より、「賀茂波爾神社」に比定され改めたという。賀茂御祖神社(下鴨神社)の第4摂社になった。(社伝) ◆波爾・赤の宮 「波爾(はに)」「赤の宮」の社号由来については諸説ある。 ◈古代の山背北部は、賀茂社の神領地だった。この地からは、神饌用の土器、清水が御供水として奉納されていた。 「波爾(はに)」は、高野川に由来するともいう。高野川は、かつて「埴川(はにがわ)」とも呼ばれた。平安時代、799年にすでに「埴川(埴河)」の名がある。(『日本後紀』)。川は「粘土(はに)」を産出していた。「はに」とは「埴」であり、祭事の際の焼き物の材料になる粘土を意味した。 ◈「赤の宮」は、古代の土器類を作る氏族・西埿部(にしはにべ)氏、土師氏の守護神とされた。この「赤」は、土器の材になる粘土の「赤土」に由来したともいう。土師氏は大枝、秋篠、菅原、毛受(もず、百舌鳥、物集女)の系統があり、第50代・桓武天皇の母・高野新笠も属したという。 ◈江戸時代、稲荷信仰により社殿、鳥居を朱塗り(丹塗り)にした。以来、単に「赤の宮」と呼ばれたことに因むともいう。 ◆建築 本殿、舞殿、社務所、社務所などが建つ。 ◈「本殿」は、江戸時代後期、1855年に造営された。その後、遷宮修理が行われている。一間社流造、檜皮葺。 ◆御蔭祭 例祭として御蔭祭(御生神事)では、路次祭(ろじさい)(5月12日)が行われている。御蔭山で迎えた荒魂を下鴨神社に送る際に、途中の当社で無事を祈願し、舞楽「還城楽(げんじょうらく)」が奉納される。 祭りの神幸行粧は、「波璽党」といわれる氏人たちが奉仕していた。 ◆神水 境内の東に「波爾井清水」と呼ばれる湧水がある。かつて、御供水として奉られていたという。「波璽御神水」「御薬水」とも称された。現在も、豊かな水量があり、水を求める人がある。 ◆高野川開墾来歴碑 境内の西北隅に「高野川開墾来歴碑」が立つ。 高野川流域のこの地は、度重なる洪水によって荒廃していた。江戸時代中期、1671年、大坂の商人・豊後屋武野又兵衛は、後水尾上皇(第108代)の修学院離宮行幸に際して、一帯の開墾に着手した。近郊の農民ら103人が入植し、高野川堤には道路「御幸路」が付けられた。道の両側は下賜され、又兵衛父子、農民らは開拓し、荒れ地は新田になり、新田村ができた。 ◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、末社・稲荷者大祭(4月第1日曜日)、例祭・出路次祭(5月12日)、交通安全祈願祭(8月17日)、火焚祭(11月17日)、末社・稲荷者大祭(12月第1日曜日)、霜降祭(12月23日)。 月次祭(毎月1日、17日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』、案内板 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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