浄蓮華院 (深草毘沙門天) (京都市伏見区) 
Jorenge-in Temple
浄蓮華院 浄蓮華院 
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本堂


地蔵尊
 深草の浄蓮華院(じょうれんげいん)は、「深草毘沙門天」とも呼ばれる。 
 天台宗。本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 江戸時代、1821年、有栖川韻仁(ありすがわ つなひと)親王の命により、比叡山延暦寺の僧・堯覚(ぎょうかく)は、第50代・桓武天皇の菩提のために建立した。
 1843年、院号は妙法院宮教仁親王が、院家号に因み浄蓮華院と名付けた。
 1860年、堯雄は、桓武天皇陵とされていた境内後方の谷口古墳の傍らに御影堂を建て、天皇の菩提を弔う。国学者・飯田忠彦は出家し、浄蓮華院で一時、隠遁生活に入る。
 現代、戦後、現在の本堂が再建された。
◆堯覚 江戸時代の天台宗の僧・堯覚(ぎょうかく、?-?)。詳細不明。比叡山延暦寺の僧。1821年、深草に浄蓮華院を創建する。
◆教仁法親王 江戸時代後期の妙法院門跡・教仁法親王(?-1851)。妙法院宮教仁法親王。閑院宮孝仁親王の第2王子。母は鷹司吉子。後に第119代・光格天皇の養子、無住だった妙法院に入室、得度後、教仁と号した。潅頂を受け、2度天台座主に就く。32歳。
◆堯雄 江戸時代の天台宗の僧・堯雄(?-? )。詳細不明。堯覚の弟子。1860年、浄蓮華院に御影堂を建てる。
◆飯田忠彦
 江戸時代後期の国学者・飯田忠彦(いいだ ただひこ、1799-1860)。徳山藩士・生田十郎兼門の次男。12歳で『大日本史』を愛読した。13歳で藩校に入り、翌年、徳山藩士・松尾恒貞の養子になる。江戸に遊学、兵学などを修める。18歳より4年間、江戸藩邸詰になる。藩主・毛利広鎮に近侍した。1818年(1819年とも)、出奔し京都に上る。24歳で、河内国八尾の郷士・飯田謙介忠直の婿養子になる。1823年、妻と離縁し同家を出奔し、江戸に遊学した。1834年、有栖川宮韶仁(つなひと)親王の家士になり幟仁(たかひと)親王に進講した。江戸・寛永寺に移る。1843年、江戸遊学し、『大日本野史』の著述を始める。1848年、韶仁親王の世子・幟仁親王の家来として宮家に復帰した。1851年、『野史』全291巻を一人で完成させた。1853年、ペリー来航後、攘夷策を建言した。梅田雲浜らと反駁運動に関わる。1858年、日米修好通商条約の勅許を江戸幕府が要請した際に、幟仁親王の長男・大宰帥熾仁(たるひと)親王の意見書に関わったとされる。1859年、安政の大獄に連座し京都町奉行に拘禁された。その後、江戸に送られる。1860年、刑期満了後、隠居、出家し、深草の浄蓮華院で隠遁する。桜田門外の変への関与を疑われ、冤罪により伏見奉行所に捕らえられる。奉行所内で自害した。
 『野史』は、寛永寺・勧学林の木活字で自ら32巻を刷ったという。隠遁した浄蓮華院の亮厳僧正を戒師として剃髪し、黙叟と号した。
 墓は龍源寺茶所(右京区鳴滝)にある。1869年、京都霊山護国神社(東山区)に合祀された。1888年、靖国神社(東京都)に合祀された。
◆仏像 本堂に木造「深草毘沙門天」が安置されている。鎌倉時代の作になる。近代、明治期(1867-1912)に比叡山延暦寺より遷されたという。
◆文化財 第50代・桓武天皇の肖像画がある。比叡山延暦寺より遷されたという。
 飯田忠彦の『大日本野史』291巻に関する関係資料がある。
◆建築 旧本堂は、京都御所より移築されたという。総檜造、桧皮葺、7間四方。台風により損傷し、終戦後に現在の仏舎利様の洋風建築により再建された。
◆谷口古墳 谷口古墳(谷口遺跡)は、境内の南東、深草谷口町(稲荷山と大岩山の間の谷南斜面)にある。縄文時代晩期の遺跡になる。土器片が発見されている。
 古墳はかつて、平安時代の桓武天皇陵とも伝えられていた。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、ウェブサイト 「伏見区役所」、ウェブサイト「コトバンク」


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浄蓮華院  〒612-0822 京都市伏見区深草鞍ケ谷町1  075-641-3221   
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