東方斎居址・荒尾精 (京都市左京区)  
The ruins of residence of Tohosaikyo
東方斎居址 東方斎居址
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「東方斎居址」の碑




【参照】若王子神社鳥居前の「東方斎碑(とうほうさいひ)」、荒尾精(東方斎)の寓居跡



【参照】若王子神社鳥居前、荒尾精(東方斎)の門下生9人の碑
 若王子神社より若王子山に向かう途中に、「東方斎居址(とうほうさいきょあと)」の碑が立てられている。ここに、近代の軍人・荒尾精の寓居があった。
◆歴史年表 近代、1894年、荒尾精は、獅谷若王子山の知人の山斎(山荘)を修理し、「東方斎」と名付たと記している。(牧山震太郎宛の荒尾書簡)
 1894年-1895年、日清戦争期に精は東方斎に隠棲した。
 1896年、精は病没する。
 1915年、鎌田多三郎により碑が立てられた。
◆荒尾精 近代の軍人・荒尾精(あらお せい、1859-1896)。東方斎。尾張藩士・荒尾義済の長男。1868年、東京の外国語学校に学ぶ。その後、中退し、1878年、陸軍教導団砲兵科に入学、陸軍士官学校を経て、1882年、熊本歩兵第13連隊付になる。1885年、陸軍参謀本部支那部付けになった。1886年、陸軍参謀本部の命により、情報収集のために清に派遣される。上海で売薬業岸田吟香の援助を受け、漢口楽善堂を運営、漢口(武漢市)を拠点にする。1889年、帰国し、「復命書(報告書)」を参謀本部に提出した。1890年、陸軍少佐・根津一(後の東亜同文書院初代院長)と、上海に日清貿易研究所(1901年設立の東亜同文書院の前身)を設立した。日本人青年に日中貿易実務を教えた。1893年、予備役に編入になる。1894年-1895年、日清戦争に際し、研究所卒業生の半数を、陸軍の通訳・諜報活動に従事させた。清国に対する領土割譲要求に反対した。1896年、日清戦争後に紳商協会創立のため台湾に渡る。ペストで病没した。39歳。
 日本・清国提携による貿易振興、東アジアの安定を唱えた。アジア独立自存の先覚者と称された。
◆東方斎碑 若王子神社鳥居前左手に追悼碑「東方斎碑(とうほうさいひ)」が立つ。
 政治家・公家・近衛篤麿(1863-1904)が、荒尾精(東方斎)の寓居跡近くに立てた。近衛は、1898年に東亜同文会を組織した。現在、碑は、東亜同文会の後身、霞山会が維持管理している。
 南に隣接して門下生9人の碑も立つ。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 サイト「京都市 東方斎居址」 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 東方斎居址 〒 京都市左京区若王子町   
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