弁慶石 (京都市中京区)
Benkei-ishii
弁慶石 弁慶石 
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由来の石板


弁(瓣)慶石、結晶片岩
 弁慶石町の三条通北側、ビルの一角に弁慶石(べんけいいし)(1m)と呼ばれる緑色の大石が立てられている。 
 石にはさまざまな伝承がある。男子が石を触ると力持ちになれる、火魔・病魔から逃れることができるともいう。
◆歴史年表 変遷の詳細不明。
 平安時代末期、武蔵坊弁慶は三条京極に住み、この石を好んだという。五条大橋より三条京極まで石を投げたという。
 1189年、弁慶は、源義経を守護し共に奥州に逃れ、高館(たかだち、岩手県平泉)で最期を遂げる。弁慶のために弁慶石も高館へ移されたという。 
 室町時代、享禄年間(1528-1532)、石が「三条京極に往かん」と発声鳴動したという。その頃、高館に熱病蔓延したため人々は恐れ、石は京都へ戻された。(『山城名勝志』)
 1453年、山科より石を移し南禅寺に置く。石は奥州衣川の底にあったものという。弁慶はこの石の上に立ち最期を遂げたという。石は京の五条橋に行きたいと告げ、石が川から出ると川の水は三日間逆流した。石は山科まで来たという。縦横一尺、7.8寸、紫色で同じ色の小石が三つ付いていたという。(『臥雲日件録抜尤』)
 1454年、石は高館より三条京極へ戻され、町名を弁慶石町と改めたという。
 1528年、石は奥州平泉の衣川(ころもがわ、岩手県)より三条京極に移されたともいう。
 1530年、石は奥州より京極律寺(京極寺、三条京極の西)に移されたものともいう。以来、弁慶石町の町名も生まれたともいう。(『山城名勝志』『山州名跡志』)
 安土・桃山時代、三条河原(三条京極)に「弁慶石」があった。人々は力試しのための力石として使っていた。かつて、弁慶が鞍馬口(上京区)で腰掛に使っていた石が、洪水によってこの地まで流されてきた。また、衣川から運ばれてきたともいう。この周辺で、人々により相撲も興じられた。(『洛中洛外図屏風』『京雀』『京羽二重」』)
 後、石は鞍馬口より洪水で流され現在地に来たともいう。また、一時、水薬師(下京区西七条石井町)に移されたともいう。(『京雀』『扶桑京華志』)
 江戸時代、1637年、「弁慶石丁」の町名がある。(洛中絵図)
 1788年、誓願寺に預けられ、方丈庭に置かれたともいう。(『都花月名所』)
 近代、1892年、石はいつの頃よりか誓願寺(中京区)方丈の庭に置かれていた。弁慶石町の人々が返還を求め旧地の現在地に移して保存したという。(『京都坊目誌』)
 1893年、弁慶石町の有志より現在地に移されたともいう。洋服店の店先にあったという。
 1929年、現在地に移されたともいう。
 1934年、銀行が土地を買い取り、石を移動させ、延暦寺の僧侶が祈祷したところ、直後に室戸台風が襲い京都に大きな被害を与えたという。
◆弁慶 平安時代末期-鎌倉初期の伝説的な僧・弁慶(べんけい、?-1189)。詳細不明。武蔵坊。幼名は鬼若、鬼若丸。熊野社別当の子として熊野に生まれる。幼時に比叡山西塔桜本僧正に預けられる。乱行により放逐、自ら剃髪し弁慶と名乗る。播磨書写山に籠るが乱行により再び放逐になる。京都で1000本の太刀を奪う悲願を立て、最後の1本をめぐり源義経(牛若丸)に五条天神で出会う。清水観音境内で義経と闘い負けて郎従になる。以後、義経の平家討伐に従い、陸奥国衣川の合戦で義経に殉じたという。
 三条通麩屋町東入付近に住んでいたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都歴史案内』『京都大事典』『ワールドミステリーツアー13』『京都市の地名』『京都の自然ふしぎ見聞録』、案内板


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 弁慶石  京都市中京区弁慶石町,三条通麩屋町東入る

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