石像寺 (釘抜地蔵) (京都市上京区)
Shakuzo-ji Temple
石像寺 石像寺 
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巨大なブロンズの釘抜き






賓頭盧尊者





御礼絵馬


釘と釘抜き


開山大師堂(観音堂)



開山大師堂(観音堂)









玉姫大明神


おさすりの地蔵、心身の悪い部分と同じところを擦って願い事をする。




石像弥陀三尊像(重美)、中央に阿弥陀如来坐像、右に観音立像。左に合掌する勢至立像


鎌倉時代作の石像阿弥陀如来
 千本通東にある石像寺(しゃくぞうじ)は、2本の5寸釘と釘抜のある「御礼絵馬」で知られている。
 正式には家隆山光明遍照院(かりゅうざん こうみょう へんしょういん)石像寺という。「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」「くぎぬきさん」と親しまれている。
 浄土宗知恩院末寺。本尊は釘抜地蔵尊。
 洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第16番札所、札所本尊は釘抜地蔵尊。京の通称寺霊場第4番、釘抜地蔵。
 諸病回復、無病息災、健康長寿、苦悩解消、下の病平癒などの信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、819年、開基・弘法大師(空海)は、自ら石像を彫り、あらゆる苦しみから救済する「苦抜(くぬき)地蔵」と名付けたという。(『蓮門精舎旧詞』)。当時は、真言宗の「光明遍照院石像寺」と呼ばれた。当初は8町四方(873m)の敷地を有した。
 鎌倉時代、12世紀(1101-1200)末、重源(1121-1206)が中興し、浄土宗に改宗される。(『浄家寺鑑』)。百万遍知恩寺に属したともいう。その後、衰微した。
 歌人・藤原家隆(1158-1237)が当寺で落髪、入寺し、以後、山号は家隆山になる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、衰退する。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、四十八願寺参り第8願所になる。(『京羽二重』)
 安土・桃山時代、1556年頃、「釘抜地蔵」と呼ばれる。
 江戸時代、1614年、西蓮社巌誉(雲海?)により中興された。(『蓮門精舎旧詞』)
 寛文年間(1661-1673)、釘抜地蔵尊は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ、洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1730年、西陣焼けで焼失する。(『月堂見聞集』)。後に、北野社内の神宮寺の移築により再興された。(『坊目誌』)
◆空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。俗姓は佐伯氏、諡号は弘法大師。讃岐国(香川県)の生まれ。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め、四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥になり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都になる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、東峰に葬られた。62歳。
◆重源 平安時代末期-鎌倉時代の浄土宗の僧・重源(ちょうげん/じゅうげん、1121-1206)。俗名は刑部左衛門尉重定、字は俊乗坊、号は南無阿弥陀仏。京都生まれ。紀季重(きの-すえしげ)/季良の子。1133年、13歳で醍醐寺に入り出家し、金剛王院・源運に学ぶ。上醍醐の円明房に止住した。高野山に登り、後に法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城などで修行した。下醍醐に栢杜堂を建て、上醍醐の一乗院、慈心院塔に結縁する。1167年-1176年、宋に3回留学し浄土教、建築法を学んだという。異説もある。現地で栄西に遭う。1168年、栄西とともに帰国した。1180年、兵火により東大寺が炎上し、源頼朝の寄進、再建に際し、1181年、重源は造東大寺大勧進職に就く。1185年、大仏開眼会を催した。1186年、周防国が東大寺造営料国になり、国司になり、材の巨木を東大寺まで運ぶ。1190年、大仏殿が上棟した。1191年、法然を東大寺に招き、浄土三部経の講義を開いたという。1195年、大仏殿落慶法要を行う。宋の鋳物師・陳和卿(ちん-なけい)の協力を得て、天竺様(大仏様)を輸入し造立した。大和尚位に叙せられる。1196年、脇侍、四天王などの木像、石像を造立させる。 1203年、総供養を終えた。著『南無阿弥陀仏作善集』。86歳。
 周防・阿弥陀寺など各地に寺院を建立する。備前・船坂山を開き、播磨・魚住泊(うおずみ-の-とまり)の改修、架橋、池の改修も行う。
◆藤原定長 平安時代末-鎌倉時代初期の公卿・藤原定長(ふじわら-の-さだなが、1149-1195)。寂蓮。藤原光房の子、勧修寺流藤原氏出身。受領、蔵人・検非違使・弁官の三事兼帯、蔵人頭、1189年、参議に就く。摂関家家司、院司も務める。源平内乱期は後白河院の近習、摂政・近衛基通の「方人」とも称され、政所別当となる。46歳。
 墓は石像寺(上京区)にある。
◆藤原家隆 平安時代-鎌倉時代の歌人・藤原家隆(ふじわら-の-いえたか、1158-1237)。権中納言・藤原光隆の子。藤原俊成の指導のもと、藤原定家らとともに新風歌人のひとりとして活躍した。後鳥羽院が1201年、設置した和歌所の寄人、『新古今和歌集』(1205)の選者のひとりに選ばれた。1221年、承久の乱以降、隠岐に配流された後鳥羽上皇と交流を続けたという。
 石像寺の山号の家隆山は、家隆に因むともいう。(『雍州府志』)。墓は石像寺(上京区)にある。
◆藤原定家 鎌倉時代前期の公卿・歌人・藤原定家(ふじわら-の-ていか/さだいえ、1162-1241)。初名は光季、季光、京極黄門、法名は明静(みょうじょう) 。歌人・藤原俊成の次男。母は藤原親忠の娘。1178年頃より歌人となる。1180年、内昇殿が認められる。1183年、父が後白河上皇の命により編纂した『千載和歌集』を手伝う。1185年、殿上での闘乱事件により除籍された。1186年、摂政・九条兼実に仕えた。良経、慈円の知遇を受けた。後鳥羽上皇(第82代)に見出される。1201年より和歌所の寄人に選ばれ、『新古今和歌集』の編纂に加わる。1202年、中将、1211年、公卿、1220年、内裏二首御会での作が後鳥羽院の逆鱗に触れ閉門を命じられた。1232年、権中納言に昇る。1233年、病になり出家した。第86代・後堀河天皇の勅により『新勅撰和歌集』を編じた。19歳よりの漢文日記『明月記』(1180-1235)を著す。邸宅は京内に数カ所あり、晩年は一条京極に移る。嵯峨に山荘を営み百人一首を編んだ。後世、歌道の師とされる。墨蹟は「定家風」と呼ばれた。80歳。
 墓は相国寺・普広院(上京区)、石像寺(上京区)にある。
◆雲海 安土・桃山時代-江戸時代の浄土宗の僧・雲海(うんかい、1527-1640)。西蓮社岸誉上人順阿慈航雲海。俗姓は都筑。相州小田原(神奈川県)生まれ。永禄年間(1558-1570)、山城に移り布教する。熊野神社を崇敬した。1590年、伏見・西岸寺の開山。1596年、伏見・西運寺を創建した。1614年、石像寺を中興し、当寺で亡くなる。114歳。
◆作庵 安土・桃山時代の医師・作庵(さくあん、 ?-?)。天正年間(1573-1592)、作庵町(さくあんちょう、千本通上立売上ル)に住み地名の由来になる。楽焼を趣味とし、「祖母懐(うばがふところ)」の印を押した。
 石像寺(上京区)に墓がある。境内の西に作庵町の地名が残る。
◆本尊 本尊の「釘抜地蔵尊」には伝承が残されている。平安時代、空海(774-835)が唐より帰国した際に、船で持ち帰った石に自ら刻んだ3尺6寸(1.09m)の石像という。(『蓮門精舎旧詞』)。唐より将来されたともいう。(『扶桑京華誌』)。種々の苦しみを抜き取るという意味から、「苦抜(くぬき)地蔵尊」と呼ばれた。
 室町時代、1556年頃/弘治年間(1555-1558)、油小路通上長者町付近(上京区)に豪商・紀国屋道林(どうりん)が住んでいた。40歳の時、突然に両手が痛みだす。治療の甲斐なく苦しみ、当寺の地蔵尊に願をかけると、7日目の満願の夕べに夢告がある。地蔵尊が現れ、道林は前世に人を怨み、仮の人形を造り、その両手に8寸(24㎝)の釘を打ち込んで呪ったという。いまその罪が返り、苦しみを受けているという。地蔵尊は、かつての怨みの釘を抜くと言い残して2本の釘を示した。
 道林が夢から覚めると、両手の痛みは消え去っていた。寺に駆けつけ、御厨子の前で伏して拝むと、尊像の前に血に染まった2本の8寸釘が置かれていた。道林も周囲の者も、身の毛もよだつほどに驚いたという。道林は以後、100日間参籠し、地蔵尊の功徳に感謝したという。その時より、地蔵尊は釘抜地蔵尊と呼ばれるようになったという。(寺伝)
 以来、あらゆる病は身体に釘が刺さったためとされ、釘抜きのために参詣した。病平癒すると、2本の8寸釘と釘抜きを張り付けた絵馬を奉納する慣わしになった。御礼絵馬は地蔵堂の外壁一面に掲げられている。1000枚あるという。2本の釘と釘抜きが添えられ奉納される。絵馬は20㎝×30㎝ほど。
◆仏像・木像 観音堂(開山大師堂)に、「弘法大師像」、「観世音菩薩」が安置されている。観音像は飛鳥時代、行基(668-749)作ともいう。
 大師像の背後に行基作という「ふじかけ(藤掛)観音菩薩」を祀る。
◆石像 ◈地蔵堂には「石造地蔵菩薩立像」が安置されている。弘法大師作という。
 ◈「阿弥陀三尊像」(重文)が安置されている。三尊は、鎌倉時代初期、「元仁二年(1225年)」の銘が刻まれ、願主は伊勢権守・佐伯朝臣為家による。中尊「阿弥陀仏」(102㎝)は結跏趺坐し、定印を結ぶ。穏やかな表情の美仏になる。光背は二重円光、小円相に11の梵字が配されている。二重蓮座、一尊を台座、光背ともに切り出した石像としては日本最古例という。
 ◈右に脇侍の「観音菩薩像」(103㎝)(重文)は、左手に蓮華を持つ。光背の二重円光、小円相に梵字を刻む。石造、花崗岩製。
 ◈左に「勢至観音菩薩像」(103.3㎝)(重文)は、合掌する。光背の二重円光、小円相に梵字を刻む。石造、花崗岩製。
 ◈右端に「弥勒菩薩」、石造、花崗岩製。
◆文化財 本堂前に、巨大なブロンズの釘抜きがある。1964年に、日本画家・堂本印象(1891-1975)が、母の回復祈願のために奉納したという。
 台座は日本画家・岩澤重夫(1927- 2009)の意匠による。
◆定家 この地には、鎌倉時代初期の歌人で、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進した藤原定家(1162-1241)、歌人で『新古今和歌集』の撰者、藤原家隆(1158-1237)が住んだという。そのため、山号は家隆山という。異説もある。同時代の阿弥陀石造願主だった佐伯為家と藤原定家の子・為家(1198-1275)を混同したともいう。
 家隆、定家(寂蓮)、為家らの供養塔と伝えられるものが境内にある。
◆墓 境内墓地に、寂蓮、藤原家隆、定家、為家の小さな供養塔(宝篋印塔)、墓がある。寂蓮、家隆、定家は当寺に住したともいう。
 安土・桃山時代の医師・作庵の墓がある。
◆井水 境内には、弘法大師(空海)が自ら堀り、加持水に用いたという「弘法大師三井」がある。「京都三井」の一つともいう。井水はいまも涌く。香水を飲み、患部に塗ると霊験あるという。
◆年間行事 節分会(厄除だるま授与、厄除大祈願受理)(2月2-3日)。
 毎月24日は住職の法話、「地蔵しるこ」が振舞われる。    


*年間行事は中止、日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都歴史案内』、『京都大事典』、『京都「癒しの道」案内』、『旧版 京のお地蔵さん』、『京都美術の 新・古・今』、『日本の名僧』、『京都の寺社505を歩く 上』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『京の寺 不思議見聞録』、『週刊 京都を歩く 30 西陣』、ウェブサイト「コトバンク」


  瑞雲院  
引接寺  千本釈迦堂            

弘法加持水

加持水、井水はいまも湧水している。 

右より寂連、家隆、定家の供養塔と伝えられている。

墓地にある井戸

井戸

井戸、水は今も湧く。

クロマツの大木
石像寺 〒602-8305 京都市上京区花車町503,千本通上立売上ル東側  075-414-2233   8:00-16:30 
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